江戸時代 1 (名古屋城下の都市計画) - Network2010

江戸時代1

江戸時代の日本

慶長8年(1603)徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府が開かれました。慶長19年、慶長20年二度にわたる大阪冬・夏の戦役で豊臣家は滅亡し徳川幕府の基盤はゆるぎないものとなりました。

17世紀終わり頃から18世紀初頭にかけての元禄時代には天下泰平になり、上方(京都・大阪)を中心に「元禄文化」が花開きました。
質素倹約を推奨する徳川吉宗が8代将軍に任じられると、財政の安定化をはかるため享保の改革を行い金融引締め政策を行いました。一方、この時期には町人層の成長がみられ、学問・文化・芸術・経済等様々な分野が発展しました。

江戸時代も19世紀を迎えると、農業を基盤とする幕府の体制は人口の増大や貨幣経済との軋轢を生み、揺らいできました。また、産業革命によって近代化を果たした西洋諸国が市場と資源を求めて鎖国政策をとっていた日本の近海に頻繁に出没するようにもなりました。幕府は外国船打払令を発して対抗しましたが、西欧諸国の圧倒的な軍事力のまえに屈して嘉永7年(1854)日米和親条約を締結し開国することになりました。

尊王攘夷派との抗争など幕末の動乱を経て慶応3年(1867)大政奉還がおこなわれ徳川幕府の幕は閉じられました。

江戸時代の名古屋の町人の人口推移

江戸時代の名古屋の町人の人口推移

清洲越から名古屋に、徳川家康の城下町建設

慶長15年(1610年)名古屋城の建設が始まりました。以後、4年の歳月をかけ完成にいたりました。
家康は、江戸・大阪につぐ城下町として情熱をもって町づくりを行いました。すでに6万人余の暮らす清洲城下から寺社(120余)、町名もそのまま移転させる計画は歴史上まれなことで、徳川家康の意気込みと力を天下に示す効果は十分であったことでしょう。
page_right.gif名古屋城400年史

清洲城と碁盤割

清洲越しの経緯と徳川家康による名古屋城下建設の様子を、名古屋の郷土史家、沢井鈴一氏に語っていただきました。
page_right.gif沢井鈴一氏による連載「名古屋広小路ものがたり」

名古屋城下の都市計画

名古屋城下図(江戸時代後期)名古屋城下図(江戸時代後期)名古屋城下略図名古屋城下略図名古屋城下と名古屋台地南端の熱田神宮を結ぶ南北の幹線道路本町通を建設、その西側に平行する運河堀川を作りました。名古屋城郭本丸には、金鯱を冠する五層の天守閣が小天守とともに威容を誇り、その南側には本丸御殿が造営され藩主義直を迎えました。

その後二の丸御殿が建てられ藩主の住居や政務を行う場所として幕末まで使用されました。また、現在の官庁街である三の丸には尾張藩の重臣の屋敷や東照宮、亀王天王社が置かれました。


広小路、外堀通、堀川、久屋大通に囲まれる区域を碁盤の目に区切り町人を住まわせ、さらに区画の中心の空き地に寺院をおきました。「碁盤割」と呼ばれています。それを囲むように武家町、寺町を配置して外敵に備える一方、町人を監視していました。名古屋で内向きの文化(花道や茶道)が盛んなのはこうした都市計画によるものといわれています。

碁盤割の町名には、出身地や職業が当てられました(京町、桑名町、駿河町、呉服町、鍛屋町など)。南寺町(中区大須を中心とする地区)、東寺町(東区高岳中区新栄付近)、西寺町(西区江川沿い)などには、現在も多くの寺院が存在し、五条橋から中橋にいたる堀川左岸は豪商が軒を連ね今でもその面影を残しています。

名古屋城内本丸、二の丸、三の丸名古屋城内本丸、二の丸、三の丸

碁盤割碁盤割

江戸時代の本町通り(CG)

名古屋城下と熱田を結ぶ本町通は昭和初期まで名古屋を代表する幹線道路として活用されました。現在、中区の橘町以南は国道19号線に吸収され、大きく姿を変えています。橘町以北の沿線には多くの寺院が並び、昭和初期まで本町通に店を構えることは名古屋商人のステータスとされました。道路の広い名古屋にあって、ゆったりと人が歩いて楽しい本町通沿線には大須商店街など歴史・文化のかおりがする町並みが続いています。

東海道 宮宿のにぎわい

江戸時代 熱田地図江戸時代 熱田地図熱田の町は、古くは熱田神宮のおひざもととして栄え、江戸時代には桑名宿と宮宿を結ぶ東海道唯一の海道「七里の渡し」の渡船場としてにぎわいました。東浜・西浜の御殿があり船番所や船会所もおかれました。東海道は上知我麻神社前で美濃路と分岐しました。
本町通を北上すると南寺町を通り、広小路を超えると名古屋城に到達します。
page_right.gif東海道・美濃路の追分

裁断橋悲話
秀吉の命で小田原攻めに加わった堀尾金助は、陣中で病に倒れ亡くなりました。金助の母親は、金助の死を悲しみ供養のために最後の別れとなった裁断橋の架け替えを思い立ち、30年以上かかってお金を貯め、橋の建設にとりかかります。しかし橋の完成を見ることなく、亡くなりました。擬宝珠(ぎぼし)に残る銘文は広く知られています。

名古屋市(市町村パビリオン)

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