赤い風車
昭和四十年代、数多くのキャバレーが広小路界隈に点在していた。はなやかなネオンサインに誘われて、多くの酔客がキャバレーにすいこまれていった。脂粉の甘い香りと紫煙が場内にたちこめるなか、舞台では歌謡ショーが行なわれていた。
キャバレーが広小路界隈にあった頃は、高度成長期で日本中が浮かれたっていた頃だ。夢から覚めれば、厳しい現実が待っている。今、その夢の跡が錦通りに残っている。キャバレー太平洋の跡だ。さびた鉄骨が、むき出しになっているのが痛ましい。
戦後の広小路がキャバレーの全盛時代ならば、戦前はカフェが夜の広小路の主役であった。カフェは、キャバレーと同じように女給がボックスで、酒を給仕するシステムの店だ。大正の末から、昭和の初めにかけてはカフェが、たいそう流行していた。
仁寿生命ビルの地下に赤玉があった(昭和8年地図)納屋橋から仲ノ町通りを越すと、すぐ北側に仁寿生命ビルがあった。このビルの地下にあったのが赤玉だ。入口にはパリのムーランルージュをまねた赤い風車がまわっている。地方から来て、広小路を初めて歩いた人は、先ず、この風車にど肝を抜かれたことであろう。この店は、風車をまわすアイデアでわかる通り、宣伝が上手であった。名古屋名物の一つとして、名古屋に行ったら赤玉で遊ぼうという客が、毎夜おしよせてきた。東京や大阪から来た人々が、話の種にのぞいてみようと、この店に立ち寄った。
広いホールの中央がサロンになっていて、四隅にボックスがある。美人の女給が三十人程いて、サービスにつとめた。
御園の電停を降りて、北へ五・六軒ゆくと東へくねって伏見町に出る小路があった。大黒小路とよばれていた。大黒屋という有名な一杯飲屋があったから付けられた俗名の通りだ。その店では“鬼ころし”という強い酒を桝売りして飲ませていた。この小路は、また別名カフェ小路とも呼ばれた。
小路にまよいこんだ客は、強い酒に自分を失って倒れるだけではない。元禄茶屋の女給の濃厚なサービスに倒れる人もいた。銀の鈴、一平などの店が、この小路にはあった。
現在、丸栄の建っているところにカフェナガタがあった。入口は青色で統一され、飾棚には、洋酒がずらりと並んでいた。広小路のビルから吐き出されたサラリーマンが、よく立ち寄る店であった。
カフェが流行るか、流行らないかは、よい女給がいるか、いないかできまる。ナガタの女給の引き抜きが起り、流血騒ぎが起った。そのためにナガタは廃業においこまれる。
広小路を代表するカフェは住吉町の角、明治銀行の地下室にあるユニオンだ。内部の装飾は純ヨーロッパ風、樹木の配置もゆきとどいている。中央には立派な舞台が設けられていた。女給の数は四十名。女給代表は元女優の月村節子であった。
大野一英は『広小路物語』のなかで、「芸妓と女給と、どちらが高級であるかはわからない。だが、この両者、対抗意識はかなり激しい。特に昭和の初めは芸妓も女給も全盛時代。広小路の南北は芸者屋、カフェの密集地だったから、彼女らの決戦場であったわけ」と記している。
夜の広小路は芸者が行き交い、カフェが賑わう一大歓楽境であった。