揚輝荘主人 伊藤次郎左衛門祐民
明治四十三年関西府県連合共進会が、名古屋で開催されて、名古屋の町はかつてない異様な賑わいを呈していた。
江戸時代の大丸屋前の様子 -尾張名所図会(イメージ着色)この年、江戸時代から本町通りで営々と商売を続けてきた名古屋を代表する大丸屋の下むら呉服店が百八十二年の長い歴史の幕を閉じて名古屋の町から姿を消していった。
明治四十一年、会社組織となった大丸屋は、東京、京都、大阪、神戸の各店とも座売り式から陳列式に改め、新しい経営方式で商売を始めた。名古屋の店だけが旧来の座売り方式で、古い反物を揃え、江戸時代と何ら変わらない方法で商売を続けていた。時代の波に取り残され、客足は遠のき、さすがの大丸屋も閉店の憂き目を見たのであった。
戦後、三越、高島屋などが名古屋に進出してきた。しかし、大丸屋だけは未だ名古屋への再度の進出をはたしていない。
十月三十一日、寂しく本町通りから姿を消していった大丸屋と対照的に、茶屋町から栄町へ華々しくいとう呉服店が進出してきた。
鈴木禎次設計による近世復興式の三階建て、建築面積四千平方メートル、高さ十五メートルの新装なったいとう呉服店が栄町へ姿を現したのは、共進会が開かれる四月十二日より一足早い三月一日のことであった。
デパートメントストーア いとう呉服店中央部に丸屋根を持った新装なったいとう呉服店のショーウインドーの前には、いつも人だかりの山ができていた。店内の通路には赤いじゅうたんが敷きつめられ、天井からはシャンデリアがつりおろされていた。
店の名前は、伊藤呉服店改めいとう呉服店と平仮名に変ったが、呉服をあつかうだけではない名古屋最初の百貨店の誕生であった。
栄町角に名古屋最初の百貨店を創設したのは、伊藤家十五代目の伊藤次郎左衛門祐民だ。父親の祐昌や古参の店員たちの猛烈な反対を押し切り、強引に祐民は、栄町に百貨店を誕生させた。父親の祐昌は、栄町の店に顔を出すことはなかったという。
伴華楼(現在):尾張徳川家から移築した座敷と茶室に鈴木禎次設計の洋間を増築した和洋折衷の建物祐民が覚王山に揚輝荘を完成させたのは、大正八年二月十一日のことだ。一万坪の起伏のある丘陵地に、ビルマやインドの建築様式を取り入れた斬新な建物が、順次建てられていった。
『伊藤家伝』(中部経済新聞社)で岡戸武平は、揚輝荘の特色ある建物を、次のように紹介している。
この揚輝荘に最初に建てられた座敷は、南大津町の現松坂屋の敷地内にあったものを移築したものである。ところが奇しき縁にも、この建物は福沢桃介と艶名をうたわれた川上貞奴が、二葉御殿に移るまで居住していた家であるという。
また伴華楼ならびに有芳軒(俗に御殿と称えている座敷)は、徳川邸内にあって「菊の間」と称せられた座敷で、承塵には葵の紋がありし日を物語るごとく黒光りにひかっている。
白雲橋(現在):修学院離宮の千歳橋を模したといわれる三賞亭(現在):茶屋町の伊藤次郎左右衛門家本宅より移築された揚輝荘最初の建物
そのほか文化財的価値のあるものとして、栗廼屋を挙げることができる。これは岐阜県細野在の民家を移建したもので六百年を経過し栗材をもって造られているのでその名がある。祐民は自ら「栗廼屋の記」を認めてこれを屋内に掲げ、入口の「栗廼家」の扁額は大谷尊由の筆になっている。
八丈島より移築した穀倉(昭和14年)珍奇なものでは八丈島よりわざわざ移し建てた穀倉で、四阿として一段の風致をみせているほか、ドイツの俘虜が当市に収容されていた際、つれづれに造った六角の小舎が一隅に移建されている。これはおそらく他にみられない記念すべき遺物であろう。
マンション建設が、揚輝荘の敷地内で始まっている。広大な敷地と建物は、かけがえのないものだ。名古屋市が後世に伝える財産として公園などにすることはできなかったであろうか。