韋駄天人力車
名古屋駅前の人力車(大正)本町通りと広小路の交差点に道路元標が建っている。道路の基点を示す標石である道路元標は大正八年(一九一九)に、当時制定された「道路法」によって、各市町村に一か所ずつ建てられた。設置場所は東京都だけは「日本橋中央」と決められたが、他の市町村は主要道路の交差点であったり、役場の前であったりさまざまであった。名古屋市は本町通り広小路交差点に建てられた。
大正九年(一九二〇)当時の市町村は、全国で一万二千以上あった。愛知県には二六四か所、今の名古屋市内にも三十数か所の市町村があり、そこに道路元標が建てられていた。今の道路元標は、本町通りの整備にあわせて、復元された新しい標石である。
道路元標の立つ本町通りと広小路の交差点、それは当時の名古屋の中心点であった。
明治三十三年(一九〇〇)十月、名古屋市で第六回東海農区農会が開催された。その時の珍しい記録が『中区史』(昭和十九年刊)に載っている。本町通りと広小路の交差点を起点とした市内各所と郊外地との間の道程と人力車の運賃表だ。主なものを抜き出してみよう。
名古屋市内 |
千種停車場(二十七町・十五銭)
笹島停車場(十七町・七銭)
遊郭(十三町・七銭)
大須仁王門(十一町・五銭)
東本願寺別院(二十町・八銭)
洲崎橋(十六町・十銭)
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名古屋市外 |
熱田神宮(一里八町・二十銭)
龍泉寺(三里・三十五銭)
犬山(六里・八十銭)
小牧(四里・五十銭)
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一町は約一〇九メートル強、一里は三・九二七三キロメートルである。この運賃は一人乗の昼間の料金だ。夜間や二人乗の場合は割増になった。
人力車は、明治二年(一八六九)和泉要助・高山幸助・鈴木徳次郎らが発明し、東京で開業をした。その後、全国に広まっていった。名古屋では、明治四年(一八七一)古渡山王前の美濃屋弥七と、富沢町四丁目の松屋喜兵衛の二人が人力車会所を設け、七十二か所の出張所を置いたという。明治六年(一八七三)一月には「人力車定則」が制定された。定則によれば、人力車一人乗運賃は、昼夜ともに二十町までは、一町につき二厘五毛、二十一町より一里までは六銭二厘五毛、一里以上は一里につき六銭二厘五毛の割であった。
「人力車定則」には、車夫は通行人に対して無理強いの乗車を勧めたり、乱暴な物言い、無礼な振舞をしてはならないとしている。また夜間は暮六つ(六時)より提灯を用いることとしている。
人力車は現在のタクシーのように名古屋の町を走りまわっていた。明治三十四年になると台数は三一五二台となった。ちなみに自転車は九八一台である。
人力車の往来が最も多いのは、本町通りである。特に広小路と門前町を往復する車は多かった。一日に十五回から二十回往復する車夫もあった。一回三銭で一日に一円二十銭かせぐ車夫もでてきた。
自分の車より、先に行く車を追い抜くのを抜きといった。抜きは、一回抜くと二銭の割増となった。広小路から大須まで走り、五回前の車を抜くと客からは三銭の他に十銭の割増をとった。
人力車に乗っている客からすれば、抜かなくてもよいと、なかなか言えない。「人力車定則」に反し、道端に立って強引な客引きをする、客に対して乱暴な口を聞き、無礼な態度をとる。客との悶着が最も多いのは、広小路、大須を走る本町通りの車夫であった。
通行人は、韋駄天走りの人力車を見ると、災難にあうのを恐れ、道端に避けた。
なかには、茶屋町の強盗殺人の手助けをする車夫も出てきた。『愛知県警察史第一巻』(愛知県警察史編集委員会・愛知県警察本部刊行)に次のような事件が載っている。
明治二十九年(一八九六)二月十三日、午後八時二十分ころ、茶屋町十番の土木請負業田村組の田村観助の家に人力車夫が訪れ、観助の車賃を請求した。応対に出た下女が「当人は留守です」と答えると車夫は表に出て、待っていた男と何かを話している様子であった。
下女が、観助の長女に、人力車夫が来たことを告げていると、突然男が、土足のまま家の中に入り込み、抜刀してふとんの中や押入を調べはじめた。長女と下女は、大声をあげて外に逃げ出す。男は各部屋を物色し、観助の妻と車ノ町のあんま杉浦徳蔵を発見した。男は刀を振って徳蔵の左頭部に斜めに切りつけた後、せいを脅迫して現金十一円を強奪した。徳蔵は、せいの療治に来ていて、観助と間違われて殺されたのであった。
現場には、中国製の刀が残されていた。警察では、日清戦争に従軍したもので観助と関係のあるものを洗い始めた。
石川県河北郡倶利加羅出身の寺口甚助が、田村組の人夫として中国に渡っていたことがわかった。甚助は人夫賃の残金支払請求の訴訟を観助に対し起こしていたが、二十九年一月二十七日敗訴となった。
これを恨みに思い、人力車夫と共に観助宅に来て、車夫に様子を伺わせてから殺害に及んだのであった。
人力車夫は高岳町に住む佐藤といった。
金にからまる、なんとも凄惨な話だ。当時の人力車夫を明治四十年(一九〇七)九月一日付けの『扶桑新聞』は、「彼らの多くは家に妻なく、子供なく、金を得るに従ひ酒を呑むやら博奕を打つやらで更に素行が修まらない。科料金の二ツや三ツ滞っても平気で澄ましている」と書いている。
韋駄天人力車は町の鼻つまみ者でもあった。