初代藩主徳川義直の治世
蓬左文庫:元和元年(1616)徳川家康の死去により多くの遺品が尾張、紀伊、水戸の御三家に移譲されました。尾張藩祖徳川義直には約3,000冊の蔵書が贈られ「駿河御譲本」として尾張藩の御文庫は形成されました。御文庫の蔵書は幕末期には5万点と推定され質量ともに我が国屈指の大名文庫でした。元和2年(1616)初代藩主義直は、駿河より名古屋城に移りました。家康は御三家筆頭として、62万石に加え尾張藩の財政基盤を安定させるため、木曽の山林(御用林)を与えました。その堅実な藩政は名古屋城下の発展を刺激し、現在の名古屋の中心部の骨格を形作りました。
また現在、蓬左文庫にて所蔵されている「駿河御譲本」は、家康の遺産として家康より与えられ貴重な文化財になっています。
慶安3年(1650)義直は江戸藩邸で死去、瀬戸市の古刹定光寺にある廟所に眠っています。
徳川義直の廟所(瀬戸市定光寺)
定光寺は、瀬戸市にある臨済宗妙心寺派の寺院で、尾張徳川家の菩提寺です。建武3年(1336年)に建立されました。
「名古屋の繁栄に京がさめた」宗春時代の繁栄
とかく地味だ保守的だと言われる名古屋ですが、元禄時代も終わり18世紀に入った1730年に七代藩主として徳川宗春の治世を迎ました。奇行で知られる宗春ですが、その開放的な政策で名古屋は京をも凌ぐ文化都市として脚光を浴びました。「名古屋の繁栄に京がさめた」と巷で言わました。
これに遡る事14年、江戸幕府8代将軍に紀州藩徳川吉宗が選ばれました。徳川御三家筆頭の尾張藩の失意と屈辱は計り知れないものでありました。
宗春は、吉宗の質素倹約に対する反発をあらわに「温知政要」の政治理念をかざして、積極的な経済・文化の開放、拡大政策をおこないました。
大須観音(北野山真福寺宝生院)
大須観音(北野山真福寺宝生院)は、慶長17年(1612年)に徳川家康の命令で岐阜県羽島市大須から現在地に移転された真言宗の寺院です。この映像は大須観音 岡部快圓貫主に寺の由来や移転の経緯、大須の発展などについてインタビューしたものです。
寛永年間(1661-1672)になると、名古屋の人口も増加して、南の郊外にある門前町に碁盤割の町人を移す必要にせまられました。興行を打つ特権などを与えましたが、あまり効果はあがりません。
大須がにぎわいをみせはじめたのは七代目藩主、宗春の時代になってからでした。武士にも芝居や寄席の見物を推奨し、さらに遊郭の開業も許しました。
大須をめざし人があつまりました。
名古屋城下には開放感がみちあふれ、吉宗の倹約政策で職を失った江戸・京都の芸人が名古屋に集りました。また、祭り好きの宗春は京都からからくり職人を招き入れ厚遇したため、からくりを乗せた山車の6割がこの地にあったといわれています。代々その伝統は受けつがれ、「ものづくり愛知」の伝統を形作る一因となりました。
しかし宗春の施策は幕府の反感を買い、財政の破綻も招いてしまいました。元文4年(1739年)、宗春は吉宗から隠居謹慎を命じられ、1764年失意の中で死去。死後も墓石に金網が掛けられました。
現在でも、宗春の人気は高く功罪両面の評価・研究はいまなお行われています。
幕末のお家騒動「青松葉事件」
幕末の動乱期尾張藩内でも勤皇派、佐幕派に別れ双方が対立していました。尾張藩は藩祖義直以来、尊王思想が強く、14代藩主徳川慶勝も就任以来尊王攘夷の立場をとっていました。
大政奉還の後の慶応4年(1868年)藩主徳川慶勝の命により藩内の佐幕派を弾圧(斬首14名、処罰20名)しました。この事件以降尾張藩は官軍の一員として戦いましたが、新政府の尾張藩への処遇は厳しく新政府内への尾張藩士登用はほとんどありませんでした。
徳川御三家(尾張、紀州、水戸)には藩主のお目付け役として将軍家から附家老が送られ、尾張藩では成瀬家と竹腰家がその任にあたっていました。その権力は強大で藩主も一目置く存在でした。
自然両家は二派にわかれ派閥を形成していました。とくに竹腰家は幕府に近く、七代将軍宗春を失脚に追いこんだのも竹腰家だといわれています。
尊皇攘夷の立場をとる14代藩主徳川慶勝が、佐幕的な立場をとる竹腰家と対立したのは自然のなりゆきでした。