大正時代の映画館
名宝会館が解体されるとともに、名古屋に現存していた最も古い映画館、納屋橋劇場も姿を消してしまった。解体される前は、納屋橋劇場は成人映画を上映していた。劇場の前には扇情的なポスターが張られていて、その前を通るのも何か面はゆい感じがした。
映画が最も大衆的な人気があった昭和二十年後半から三十年の前半にかけての時代、この映画館は大映の封切館であった。場内はいつも満員の観客でわきたっていた。坂東好太郎の出演した西遊記は、今も鮮烈に覚えている。
納屋橋劇場は、大正時代に創建された名古屋の最古の映画館の一つで、大正時代には金輝館と呼ばれていた。
名古屋興行界の重鎮岡崎久太郎が育てあげた小屋だ。
昭和8年の広小路通り。赤で表示しているのが中央館と千歳劇場。大正時代、岡崎久太郎の経営する小屋が、他に一つ広小路の本町通南東角にあった。小屋が建てられる前には、名古屋警察署があった地だ。大正時代には中央電気館と呼ばれ、後に広小路劇場と名前は改められた。
中央電気館は、明治四十一年四月一日の開館である。大正十一年の終わりには、小屋の名前は中央館と改められた。
中央館は後部に二階があり、一等席になっていた。スクリーンの右側は、楽士・おはやし連の楽屋、左側は弁士の楽屋になっていた。映写室の左側には監検席があり、警官が場内をにらみつけていた。
大正から昭和の初めにかけて、中央館は日活系で、尾上松之助のチャンバラ映画や新派の悲劇を上映していた。無声映画で、弁士が映画説明をしていた。
『シネマよるひる』で伊藤紫英は、次のように語っている。
「広ブラ」時代、若い人たちは、市のはずれや外からでも、広ブラを楽しみに出てきた。広小路の夜は、のびやかであった。中央電気館のあでやかな絵看板にさそわれて映画を見ると、そのころ、深夜興行などとはいわなかったけれど十時をすぎることもあった。
コーヒーを飲んで、ひととき話がはずむと、終電車に乗りおくれる。公共乗りものは路面電車だけで、十銭バスが走り出したのは昭和になってからであった。円タクがあった。一円均一。実際には「ギザ」一枚で乗せてくれた。五十銭硬貨のまわりに、今の百円硬貨と同じギザギザがあるので、それを「ギザ」といった。電車が走っている時間にタクシーに乗るのはお金に余裕がある人だ。終電車以後にはタクシーに乗るほかはないので庶民も乗る。終電車以後には、タクシーの料金をギザ一枚にまけてくれた。
宵やみせまる頃、広小路をぶらぶらと散歩する人でにぎわう「広ブラ」の全盛時代の頃の話だ。
太平洋戦争に突入すると、この映画館はニュース映画専門館となり、名前も「広小路ニュース劇場」と改称した。
太平洋戦火により、この映画館は灰塵に帰す。再建したのは昭和二十二年五月のことであった。広小路映画劇場と名前を変えての出発であった。
広小路映画劇場では、ヨーロッパやアメリカの名画を上映した。昭和二十六年に上映された名画をあげてみよう。
一月にはワイラー監督、G・クーパー出演の「西部の男」、三月にはD・ケイ出演の「虹を掴む男」、六月にはヒッチコック監督、オリヴィエ出演の「レベッカ」など名画が続々と上映される。
さしもの明治時代から続いた映画館も、昭和三十四年の十一月に閉館する。名古屋駅前に新しい大劇場が相次いで開館し、人なみを奪われたからだ。
大正時代に広小路で映画を上映していたのは、金輝館、中央電気館の他に、千歳劇場がある。千歳劇場の前身は、明治十八年に大須の真本座が南桑名町に新築移転してきた千歳座だ。
芝居興行の千歳座が松竹の直営映画館の千歳劇場となったのは大正十年である。松竹が輸入するヨーロッパ映画や蒲田作品などが上映された。
戦後、昭和二十二年一月一日に再建復活した千歳劇場は、大映の直営館となった。片岡千恵蔵の「七つの顔」が再開後の最初に上映された作品だ。
昭和四十五年五月、千歳劇場は閉館し、その後はキャバレーとなったが、そのキャバレーも姿を消してしまった。