広小路ことはじめ
大正元年の名古屋市の戸数は、九万四八九六戸、人口は四三万五二九人であった。
大正時代の名古屋の幕開けは、台風の襲来によって始まった。九月二十三日、午前五時から風速四十メートルの強風が吹き始めた。死者三十二人、家屋の倒壊は四十戸に及んだ。名古屋市に対して天皇陛下より下賜金が与えられた。
大正五年の大工の賃金九十銭、左官九十銭、和服仕立職六十三銭、洋服仕立職九十三銭であった。
新装した新栄町二丁目の愛知県警察庁舎(大正9年頃)大正九年二月十七日、愛知県の各市町村の道路元標の位置が決められた。名古屋市は中区鉄砲町一丁目十七番地、広小路と本町通りが交差する地点であった。東京都の場合は、日本橋に置かれている。
大正九年二月二十一日には、新栄町二丁目の愛知県警察部の庁舎が新装となった。旧庁舎が建てられたのは、明治三十六年であった。建築されたばかりの当初は、斬新な洋風建築として異彩を放っていた。広小路名物として、わざわざ郡部より見物に来る人もいた。旧庁舎の建物の屋上には火の見台と半鐘とが乗っていた。
わが国で、最初に大通りに街灯が点灯したのは広小路であるという。大正十一年四月、名古屋電灯株式会社は、七十基の街灯で、広小路の夜を照らした。五・一〇メートルの鉄柱に、それぞれ一基の街灯がつけられていた。
大正九年十二月五日、覚王山に移転した日清戦争戦死者記念碑の跡地に、街園が新設された。街園には花が植えられ、庭石が配置された。夜には三百ワットの電灯十二基が街園を照らした。街園を造る工費は一万三三〇〇円であった。
大正十三年五月一日、名古屋で最初のメーデーが鶴舞公園で開かれた。デモは鶴舞公園から上前津、そして栄町に向かい、広小路を行進し、本町通に入り、那古野神社前で解散した。
広小路本町に立つ奉祝門の夜景(昭和3年頃)『新修名古屋市史第六巻』によれば、名古屋で最初にハイヤー営業を始めたのは東区七間町の久瀬善八であるという。大正元年、クリット号一両で営業を始めた。標準的料金は一時間あたり市内は五円、市外は六円であった。タクシーは大正三年に大池町の酒井藤太郎が名古屋駅前で、フォード号にメーターを装備して営業を始めたのが最初であるという。料金は、最初の〇・七五マイルが七十銭、八分の三マイルを増すごとに十銭が追加された。
名古屋駅から広小路を、年を追うごとにタクシーやハイヤーが多く走るようになった。
大正十五年十一月四日、名古屋市土木局が午前六時より、午後六時までの十二時間、広小路本町通りの西側で交通量調査を行なった。一時間の平均は乗用車三六台、トラック九九台、自転車千四二六台、人力車五台、牛馬車百二三台、牛馬二八頭、牛車二百九台、電車九四両であった。
大正十五年九月の大工・左官の賃金は、一日十時間労働で三円であった。十年余りで三倍ほど高くなっている。