鬼より黒く恋より甘いブラジルコーヒー
昭和十四年に刊行された『百万名古屋』に、広小路を紹介した次のような文が載っている。
広小路――
ブロウド・ウェイはニューヨークの、否アメリカの都会では、必ずメーンストリートとして存在する繁華な大通りである。
そのブロウド・ウェイを、日本式に行けば広小路。とりもなほさず名古屋の心臓である。
中部日本に於ける時代文化の中心、名古屋の脈搏は、この不断に動く「赤い心臓」広小路の呼吸から次第に高潮されてゆく。広小路の夜が織り出す光りと色と音のシンフォニーは、すなはち、中部日本に於ける代表的時代レビューである。
心臓の弁膜、栄町交叉点に立って、眼を見張る。耳を澄ます。折からビルデングの壁に歩道の鈴懸を包もうとしてゐる夕闇を、断然蹴飛ばして、パッと一斉に輝く街燈、広告看板――忽ちにして大不夜城が現出する。
広小路が、名古屋の中心であり、名古屋の誉りであったことがわかる文章だ。
中区役所向かい喫茶店カフェーライオンがあった(地図:昭和8年)名古屋の名所、広小路の納屋橋から栄町まで、散歩することを広ブラといった。広ブラをして、疲れて休む場所が喫茶店だ。
本格的なコーヒーを飲ませる店が、大正二年に誕生した。店の名前はパウリスクだ。店は栄町交差点を少し南に行くと東側にあった。“鬼より黒く恋より甘い”という宣伝文句で客を集めた。ブラジルコーヒー一杯が五銭であった。この年の尋常小学校の授業料一ヵ月金十五銭。コーヒー一杯が一ヵ月の授業料の3分の1であった。
丸善書店が栄町に開店したのは、この年の四月であった。
栄町の中区役所の辺りは、市役所、県庁の建つ官庁街であった。市役所の前に老舗の喫茶店ライオンがあった。昼食時には役人で超満員であった。
栄町の交差点から大津町に入った南側に、松川屋菓子店があった。この店の二階が喫茶店であった。松川屋の喫茶店には、ひとりで行くものではないと言われていた。松川屋喫茶店は、アベックの甘い語らいの場であったからだ。
昭和10年頃の森永キャンデーストアの広告昭和10年頃の明治製菓売店の広告広小路通りをはさみ、森永製菓と明治製菓の経営する喫茶店が建っていた。森永製菓の喫茶店は、現在の丸栄スカイルが建っているところにあった。
明治製菓は、丸栄の建っている所の向い側にあった。ねずみ色のすっきりとした装いの店で、洋菓子を並べた店の奥と二階が喫茶店になっていた。
朝日神社の西隣に建っていたのが敷島パンの喫茶店だ。本町通りと住吉町通りの間、現在の東急インの向い側に建っていたのが不二家喫茶店だ。この喫茶店の室内装飾は豪華であった。天井からは、シャンデリアが下り、ボックスは深々としていた。給仕には少年を使っていた。
広ブラに疲れた人たちが休む店として、広小路の喫茶店は、たいそう繁盛していた。