名古屋市役所と愛知県庁
広小路を挟んで向かい合う中区役所(名古屋市役所跡)と愛知県庁(昭和8年地図)現在の中区役所が建っている地はかつて行政の中心であった。昭和8年に現庁舎に移転するまで名古屋市役所があり、広小路を挟んでななめ向かいに愛知県庁があった。(昭和13年3月22日に現庁舎に移転)
廃藩置県が明治四年(1871)発布された。愛知、額田の両県を合併し、翌年には、庁舎を旧三の丸の竹腰邸の跡に置いた。庁舎は、その後、東別院、久屋町と移った。南武平町の第一生命ビルの地に移ってきたのは、明治三十四年(1901)のことだ。
県庁近くには、議事堂、警察本部があった。
久屋町にあった愛知県庁武平町に移転した愛知県庁当時、広小路通りは、名古屋駅のある笹島から、県庁のある久屋町通りまでしか通じていなかった。明治三十一年開通した電車は、笹島から栄町(県庁前)まで走っていた。
この電車の終点、県庁前に、明治三十四年、高さ二十二メートル、砲弾型の記念碑が姿を現した。
明治43年の栄町交差点、左のレンガ建築が日本銀行名古屋支店記念碑とそれをとりまく愛知県庁、愛知県会議事堂、右下の屋根が名古屋市役所明治二十七、八年の日清戦争の戦死者の記念碑だ。記念碑には、戦死者の名前と碑文が刻まれていた。碑文の書き出しは、次のような文で始まっている。
明治二十七、八年の役第一軍の戦大小五十余回此間九閲月隆暑を冒し邪寒を凌ぎ深く不毛の地に入り露宿糲食衆皆疲瘠骨立す
戦争のむごさ、厳しさを余すところなく伝える文だ。この戦争で七百二十六人が亡くなった。この記念碑は、大正九年(1920)解体されて、覚王山に移された。
栄町の三越の地には、昭和初期、草津温泉という銭湯があった。仁和田氷菓子店があり、ラジオ店があり、蓄音機店があった。碁盤割の町並みに、今、銭湯は一軒も残っていない。氷屋も、ラジオ店も、蓄音機店も、町中から姿を消して久しく時がたつ。昭和は遠くなりにけり、この地に立つと、そんな感慨におちいる。
中央バザーの中の様子アラビア風建築の中央バザー広小路通りをはさみ、北側にはアラビア風の建物の中央バザーが、明治四十四年に建てられた。大正元年には、洋式三層の建物を増設し、演舞場、公会堂として使った。
大津通りと広小路の角には、日本銀行の堅牢な建物がそびえていた。日本銀行は、明治三十年(1897)三月より営業を開始した。
名古屋市が誕生したのは、明治二十二年十月一日であった。市役所の所在地は、現在、丸栄スカイルが建っているところだ。明治十三年(1880)名古屋区役所(市役所の前身)の庁舎として建てられたものだ。初代の名古屋区長は吉田禄在だ。
明治四十一年(1907)十月二十四日、名古屋市役所は、出火全焼してしまい、現在の中区役所の地に移った。