買うか、買うまいか勧工場
明治三十四年九月、雑誌『大福帳』が丹心館より創刊された。この雑誌に本町通りの商家案内が毎号連載された。広小路と本町通りの交差点東南角には勧工場(かんこうば)、盛商館があった。勧工場の一階には饅頭屋の盛氷舎がある。『大福帳』は盛氷舎について、次のように記している。
目貫の場所、冬はまんぢう、夏は一盃五厘五厘の早変りで瞬間数百円の収入をせしめるとは、よくマアかんこう下には置けぬ床店
五厘の氷で、数百円の商売になる。いかに商売をするのに立地条件がよく、客が入ったかという証明だ。広小路本町角が当時の名古屋の最もにぎわいのある場所であった。しかも、店とはいえない狭い勧工場の床の上での商売だ。
盛商館についての寸評は次の通りだ。
相も変らぬ三階の目鏡でごまかしては、御得意の田印の方が、一寸かんこう場で覗かぬ様になりやせぬか、ここらが一寸かんこう場
明治二十三年に刊行された宮戸松斎の『尾張名所図絵』の「栄町之景」には、盛商館の図が載っている。盛商館は三階建ての立派な建物だ。陳列棚には、珍しい品物が並び、田舎から名古屋に遊びに来た人々の購買欲をそそる。しかし、この頃には、勧工場にも目新しさがなくなり、しだいに客足が遠のきつつあった。
『大福帳』は盛商館については「覗かぬ様になりやせぬか」と婉曲に、そのことを表現しているが、広小路の西北にあった愛知館については、端的に次のように書いている。
手を替へ品を替へその客を呼ぶも、何分此頃の不印では客の方が一寸勧考場
勧工場は、明治十一年一月二十日、東京永楽町の辰の口(現在の千代田区丸の内)で、前年に上野公園で開催された内国勧業博覧会で売れ残った品物を陳列、販売したのを嚆矢とする。
勧工場は経営者の異なるさまざまな売店が一つの店舗の中に入り、日用品、洋物、呉服、文房具など、幾種類もの商品を揃え、それを陳列し、販売していた。従来の座売形式の販売方法とは異なり、勧工場では陳列形式の販売方法が物珍しさも手伝い人気を博していた。店舗の中には、土足のままで入ることができた。広小路の勧工場は盛商館・愛知館の他に、広栄館・商栄館・安栄館があった。
名古屋の勧工場で、最も規模の大きかったのは、栄町にあった中央バザーだ。アラビア風の特異な建物は、さぞかし人々の目を惹いたことであろう。勧工場が、特異な外観をもつようになったのは、他の店舗が近くの住民を相手とする商売に対して、勧工場は広範囲の不特定の客を対象とした商売であったからだ。『大福帳』が盛商館のお得意さまを「田印」と記しているように、田舎から名古屋に遊びに来た人々が、特異な建物に目を奪われて、勧工場に足をふみ入れるのであった。特異な外観は、客を呼びよせる広告塔の役割をはたしていた。
伊藤紫英の『シネマよるひる』の中に、勧工場の思い出を記した一文がある。
南側には「広ブラ」どおりの中程、本町角よりすこし東に中央電気館という「活動小屋」があって色彩あでやかな絵看板をかかげて明るく人を惹きつけていた。さらにその東隣りには広小路勧工場があって、これも人をひきよせる所であった。ここは<名古屋商品館>という看板も出していた。
その実体は今の地下商店街の一部分を小さくしたようなところであった。小さいながらにショッピング・センターであった。
この文によれば大正末期には、名古屋商品館という勧工場が広小路通りに面し、本町角の東よりにあったことがわかる。
勧工場は、百貨店の規模を小さくしたようなものであった。広小路は、明治末から松坂屋を始めとして百貨店が進出するとともに、勧工場は一つ、二つと姿を消していった。