唐子車
『尾張年中行事絵抄』に、次のような記述がある。
惣て町々の天王祭は朔日頃より五日、六日に至る。其内に此下納屋裏なる中之切は八日九日頃にあり、此時内屋敷より車をかざりて中之切の天王へ引なり。その道すがら俄思ひつきをなす。或年京の祇園会をうつして山鉾を渡す。又ねりものの真似して大の男ゞ太夫の道中大笑ひ大笑ひ。
中村区の堀川端には山車蔵が三つある。神明社の脇にある紅葉狩車の山車蔵、小鳥町の二福神車の山車蔵、そして、納屋橋の南、内屋敷町の山車蔵である。
内屋敷町の山車は唐子車である。現在は広井神明社の祭車として、他の二車とともに曳き出されている唐子車であるが、江戸時代には『尾張年中行事絵抄』に書かれているように下納屋裏の中之切の天王社の祭に曳きだされていた。祭にはさまざまなパフォーマンスが演じられた。祇園祭の山鉾の巡行の真似をしたり、大夫道中の真似を男たちがして、見物人の笑いをさそった。
名古屋まつりで曳かれる唐子車(2008.10.12 撮影)中之切の天王社は町内の氏神様であるが、名古屋の天王社といえば、三之丸天王社をさしていう。三之丸天王社は現在の那古野神社である。名古屋城内の三之丸に祀られていた天王社は亀尾天王ともよばれていた。
この亀尾天王社の車楽に対する見舞車として曳かれたのが唐子車である。見舞車は、江戸時代後期には十八輌にも達したという。
見舞車について『尾張年中行事絵抄』は、次のように書いている。
車之町の当番の年は、益屋町より小車に提灯数多飾りて、笛・太鼓をなし、片端へひき参り、車楽の側に止めて囃子をなす。名古屋村、広井村等も同じく、其年当番にあらざる町々より、小車を引来れり。是を見舞車と号く。
天王祭にその年の当番になっていない町から曳き出す山車が見舞車だ。
唐子車は、天保十二年に建造された名古屋型の山車である。名古屋型の山車は、天井は唐破風で、紅梁に四神の彫がなされている。
唐子車の四本柱の周りを囲う霞幕は、八代中村勘三郎、八代松本幸四郎など芸人の書や画が描かれたものだ。曽我廼家十吾はススキに雁を描き、
楽の笛 雁うやうやしく 舞ゐにけり
の句が書かれている。
神明社祭と名古屋まつりの時に山車は曳き出される。神明社祭には町内曳きが行なわれる。