明治橋
牧野町に向かって伸びるガード下の道笹島の交差点を東に進んでゆくと名鉄やJR、新幹線の高架の下をくぐり、牧野町に出る道がある。この暗くて狭いガード下の道を歩く人は、ほとんどいない。広小路から稲葉地に抜ける幹線道路の渋滞をさける車が、この道を通り抜けてゆくだけだ。
この長いガード下の道を牧野町へ抜け、二本目の道を左に曲がると二銭亭と書かれた看板が見える。串カツだけを売っている店だ。夕ぐれ時ともなると串カツをあげる匂いが路地にただよい、その匂いに誘われて、のれんをくぐり勤め帰りの人々が入ってくる。
(編集部 注:二銭亭はすでに廃業し、現在お店はありません。)
二銭亭という店の名前は、串カツを一本二銭で売っていたことから付けられた名前だ。戦争直後、名古屋駅の駅裏は露店・闇市が軒を連ねて並んでいた。リンゴ十円で二個、スルメ一枚四円、ネギ十円で七本、大根一本七円、ワイシャツ二百円、白足袋四十円というのが、昭和二十一年当時の闇市の相場だ。
闇市の青空食堂の主役は串カツであった。ビフテキ十四円、カキフライ十円、五目そば五円、コーヒー五円であるが、串カツは十八円であった。
二銭亭は、戦前からの店だ。串カツは高級な食物ではない。子どもから大人にまで好まれる、大衆的な味の串カツを売っているのが二銭亭だ。客は皿に盛られたキャベツの上に、揚げられたばかりの串カツを乗せ、ビールをうまそうに飲んでいる。皿をかかえて近所に住む主婦が、夕飯の総菜として串カツを買いにくる。千客万来で二銭亭は大繁盛だ。
老人が皿をかかえて店に入って来た。息子夫婦が留守で、今日はひとりで夕飯を食べなければならないので、串カツを買いに来たという。老人の名前は相崎さんという。しばらく明治橋のことについてうかがった。
「田舎から名古屋に初めて来た時、明治橋の上で名古屋の街をながめた。その時たいそう驚いたことを今でも覚えています。」
橋は異質な空間をつなぐものだ。相崎さんが明治橋から眺めた昭和初期の名古屋の街は、自分の住んでいた田舎とは別世界の光景に思えたであろう。若き日の相崎さんにとって、明治橋は、自分を夢の世界につないでくれる橋であった。
「明治橋は、荷車や大八車が土ぼこりをあげて通りぬける。中村の遊郭への人でいつも大変な人通りでした。」
郡部から名古屋に野菜を売りにくる農夫がひく荷車、肥車をひく大八車、それらにまじり、そぞろ歩きの遊客たちは、東海道線、中央線、関西線から吹きあげる煙にまみれながら、この橋の上を通って行った。
「明治橋は、二銭亭の前の道とガード下の道とが交わるところの西側に小さなロータリーがある。そこの所から架っていました。」
明治橋が東海道線、中央線、関西線の跨線陸橋として架ったのは明治三十四年三月三十一日のことだ。長さ八間一尺(約一四・六メートル)、幅員四間(約七・二メートル)であった。
駐輪場のそばに今も残る「めいちはし」と書かれた石柱明治四十三年、関西府県連合共進会を機会に豊国神社の社域が拡張され、中村公園が整備された。明治橋から中村公園へ直通する道が開通したのは大正二年のことだ。橋の上は、ますます混雑をきわめることになる。大正十二年、大須の旭遊郭が中村に移ったことにより、この道は四六時中人通りの絶えない道となった。
昭和十二年、汎太平洋博覧会の開幕を前に名古屋駅は笹島から現在地に移る。それに伴い鉄道線路は高架式になって、明治橋は撤去された。
笹島交差点の北東に、「めいちはし」と書かれた石柱が置かれている。放置自転車の山の間に埋もれるようにして建っている、この柱に目をとめる人は誰もいない。「明治は遠くなりにけり」ではなく、この石柱を見れば「明治橋は遠くなりにけり」と思う。