広小路にそびえる摩天楼
名古屋駅前に超高層ビルが空高く聳えている。名古屋駅から出て来た人々は、一瞬立ち止まり、眼の前に現れたビルを仰いでいる。
北浜銀行名古屋支店だったビル(昭和2年)大正五年(一九一六)、広小路に摩天楼が出現した。名古屋駅前の摩天楼を仰ぐ平成の人の驚きよりも、広小路に初めての鉄筋コンクリート造の高層建築を見た大正の人々の驚きは大きかったであろう。
名古屋で最初の高層建築の設立者は北浜銀行で、名古屋支店として設立された。設計は鈴木禎次、施工は清水組である。地上七階、地下一階、敷地面積は一三八坪だ。最上階には八層閣という西洋料理店があった。エレベーターは有料で五銭であった。地方から人々が、名古屋名物となった建物を見物に訪れた。人々は、北浜銀行を八層閣と呼んだ。
北浜銀行の支店長中西万蔵は、八層閣の竣工披露宴では、名古屋市内の芸妓のほとんどを動員した。派手な彼の行動は、名古屋市民の注目をあびた。芸者を人力車に乗せて自分が引いて走る、十円札をロウソク代りにもやす、自家用車を乗りまわす等、支店長の眉をひそめる行動が続いている時、突如、大阪の本店が放漫経営のため支払停止の運命に見舞われた。名古屋支店も臨時休業になった。まだ鉄砲町の旧支店から、引越しがすまぬ中の出来事であった。
北浜銀行の倒産の後、この建物は横浜正金銀行、野村証券など持主は次々と変わってゆく。
愛知銀行(昭和12年)伊藤銀行(昭和2年)大正六年、名古屋市に本店を置く銀行は伊藤銀行・愛知農商銀行・名古屋銀行・明治銀行・愛知銀行・村瀬銀行の六行であった。この六行のうち名古屋・明治・愛知の三行は預金、貸付金額においてはるかに他の銀行を凌駕していた。
明治銀行(昭和2年)明治銀行は、大正十年一月、広小路・七間町西南角に鉄筋コンクリート地上二階、地下一階の工事に着工した。設計は長野宇平次、施工は清水組(清水建設)である。工費は六十三万六千円であった。
明治銀行は、名古屋財界の大立者、奥田正香・鈴木摠兵衛・服部小太郎などを取締役とし、明治二十九年に設立された銀行だ。最初本店は伝馬町にあった。広小路に移転し、新しい本店が竣工したのは、大正十二年七月であった。
昭和六年、長引く不況と満州事変のため破綻をきたす銀行がでてきた。愛知農商銀行に続き、昭和七年三月村瀬銀行の取付騒ぎがあり、明治銀行までが倒れてしまった。銀行倒産後は、建物は富国生命となる。
明治銀行の頭取生駒重彦も、北浜銀行支店長に劣らぬ派手な豪遊をくりかえしていた。
名古屋銀行(昭和12年)名古屋銀行が、現在の貨幣資料館の地に建ったのは、昭和元年のことだ。鉄骨鉄筋地上七階地下一階で、工費は五十四万四千円であった。
後に名古屋銀行は愛知銀行と合併、さらに東海銀行となり、現在三菱東京UFJ銀行と名前は変っている。