名古屋寄席ことはじめ
高力猿猴庵は実に筆まめだ。町に起った出来事を書き記すだけでなく、見世物・芝居興行も丹念に記録している。『金明録』を読めば、名古屋芸能史の一端をたどることができる。
広小路で興行された話芸を『金明録』から抜き出してみよう。文政元年(一八一八)六月一日の項に、次のような記述がある。
広小路夜開帳にておどけ開帳の見せ物有。是は当春より此所にて噺をせし天口斎玉珉等、ゑどきをして色々見立の宝物を出す。
おどけ開帳とは寺社開帳もどきに、でたらめな偽の宝物をならべて、それを面白おかしく絵解きをしてゆくものだ。天口斎玉珉は、江戸で活躍した話芸の達人である。広小路のおどけ開帳も、多くの人々を集め、話題をよんだ。
関山和夫『中京芸能風土記』(青蛙房)に「名古屋で寄席興行が開始されたのは、文政元年二月、柳薬師前における天口斎・浪華珍亀の「軽口ばなし」興行からである」という一節がある。
街頭で行なっていた辻ばなしから、雨天でも興行のできる寄席が初めてできたのは、寛政十年(一七九八)六月の江戸神田における興行からである。柳薬師前における、この時の木戸銭は八文であった。天口斎は一つか二つはなして高座をおり、四文ずつさらに追加して集めたという。寄席は落語(はなし)が中心であるが色ものとして軍書よみ(講談)・手妻・物まねなどが演じられた。
広小路でも文化五年(一八〇八)六月十七日からの夜開帳では、こま廻しの名人が来て興行を行なった。『金明録』文化六年、六月十四日の日記を猿猴庵は、次のように記している。
広小路夜開帳に、伊勢より舞子六、七人来り、則、川崎音頭おどり、又、所作事いろいろする。惣体、舞台も花美にして、木戸には大灯籠を釣り、至極、花麗也。見物、毎夜群集にて、評判吉。
広小路の夜開帳では、さまざまな見世物が出、さまざまな興行が行なわれた。長者町筋から七間町までの広小路通りには、多くの店が出た。柳薬師の前には多くの小屋が掛けられた。
文政三年六月一日から百人芸という珍しい芸が柳薬師前にかかった。猿猴庵日記は次のように記す。
広小路へ百人芸来り、朔日より興行。江戸者にて白面舎狸友と言。鳥の声、虫の音、さまざまの啼色を真似る。又、女房、三味を引、江戸歌・豊後杯を諷ふ。是に合せて口と腹をたたき、大鼓・小鼓の拍子を取。又口にて草笛・横笛等を吹わけ、或、鼓弓の音色等をなして、拍子能一興也。最初は落し噺のごとく、其噺の内に、吉原のさわぎ、船遊山等の所にて、右の鳴り物を真似る也。百人芸とは、百人に独りの珍敷芸と、ひゐきの人々より名付しと言。当所にても評判能、繁昌なり。