堀川開削の理由
約400年前、名古屋台地の北端に名古屋城が築城され、その南に城下町が建設されました。江戸時代の海岸線は熱田までで、その沖合は遠浅の海が南にひろがっていました。このため大型船の停泊は難しく、輸送された荷は沖合で小型船に積み替えて熱田の浜に陸揚げされまていました。
しかし、熱田からさらに内陸部にある城下町へと荷物を大量に運搬するには船を用いるしかありません。そのため熱田の浜から名古屋城下までの物資の運搬を担う運河の開設が行われることになりました。
堀川の誕生
名古屋城下図にみる堀川慶長15年(1610年)福島正則により熱田と名古屋城下を結ぶ堀川の開削が始まり、総延長約6km、川幅(約22~87m)の堀川が誕生しました。
北端は名古屋城西の幅下で、名古屋城の外堀と結ばれていました。素掘りの堀川はしばしば土砂の流入に悩まされ、浚渫などの維持は商人等の受け持ちとなっていました。
熱田大瀬子の朝市 - 尾張名所図会(イメージ着色)日置橋 - 尾張名所図会(イメージ着色)堀川には川下より、新橋(尾頭橋)、古渡橋、日置橋、納屋橋、伝馬橋、中橋、五条橋の七つの橋が架けられ、特に河口に近い尾頭橋は台風などの被害も多く、しばしば架けかえられたので新橋と呼ばれていました。
天王崎天王社 - 尾張名所図会(イメージ着色)熱田の浜、大瀬子の魚市場を北上した現在の白川庭園の付近には御船蔵が造られ軍船や御座船が収蔵されており、また木曽美林から切り出された木材を貯木する貯木場もありました。堀川をさらに北上し尾頭橋付近に来ると右手に名古屋の名景沢観音が望め、日置橋の両岸は桜見物の名所として知られていました。
御船御行列之図洲崎橋の付近には船奉行や水主という水軍関係者の屋敷が配置され、納屋橋の南の右岸には三つの蔵を持った藩の米蔵がありました。納屋橋を過ぎ五条橋にいたる両岸には商人たちの蔵が立ち並んでいました。現在でも大舟町あたりの町並みは当時の名残を残しています。
写真で見る大正・昭和期の堀川
堀川の変遷
寛文3年(1663年)矢作川の下をくぐり庄内川に通じる御用水が開削され、新しい水源として名古屋城の堀に導水されました。その後の天明4年(1784年)、江川に接続されていた大幸川の川筋を変えて堀川につなぎ、庄内川から流入する御用水とともに新しい水源となりました。
庄内川からの水を引く取水口庄内川と水分橋。画面中央奥に堀川への取水口がある明治に入り黒川の開削が行われ、守山区の水分橋から北に矢田川の下を通り庄内川につながる堀川の水源が誕生しました。
明治も半ばを過ぎると名古屋港の建設が始まり、熱田沖から南に向けて浚渫作業が行われ、明治40年(1907年)名古屋港の開港により堀川は延長され現在の姿となりました。