大正時代 2(和洋折衷の町並み) - Network2010

大正時代 2(和洋折衷の町並み)

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名古屋城(大正時代中頃)名古屋城(大正時代中頃):名古屋場内には、歩兵第6連隊、騎兵第3連隊、野砲兵第3連隊、輜重兵第3大隊が駐屯し、師団司令部が総轄した。本丸や西の丸などは明治26年(1983)宮内省に移管され名古屋離宮となる。写真は、名古屋城の上を演習のため陸軍の複葉機が飛んでいる様子。

第三師団司令部(大正中頃)第三師団司令部:明治 6年(1873)に名古屋鎮台が名古屋城内に置かれ、明治 19年(1886)に第三師団と改組され司令部が設置された。師団は6千人から2万人程度の兵員を持ち、師管内にある軍隊を統率し、徴兵、治安出動、軍法会議など軍事に係る事案を所轄した。師団長には中将があてられ、近衛師団、戦車師団、高射師団、飛行師団のほか1~6の師団が置かれた。

名古屋控訴院(大正初期)名古屋控訴院(大正初期):明治14年(1881)名古屋控訴裁判所として設置され、明治19年(1886)名古屋控訴院と改称された。

名古屋控訴院(大正後期)名古屋控訴院(大正後期):大正11年(1922)、東区主税町に名古屋控訴院・名古屋地方・区裁判所庁舎が竣工した。戦後、名古屋高等裁判所として使用され、現在は市政資料館となっている。重要文化財。

栄町交差点(大正中頃)栄町交差点(大正中頃):明治43年(1910)、いとう呉服店は焼失した名古屋市役所の跡地、栄町交差点南西角に茶屋町より移転し、株式会社となった。3階建ての近代的な百貨店を開業した。昭和12年(1937)南大津に移転するまでデパートとして営業を続けた。手前の広小路を市電が走っている。

中央バザール(栄町交差点北東)大正初期中央バザール(栄町交差点北東)大正初期

納屋橋(大正初期)納屋橋:堀川にかかる納屋橋は、名古屋停車場開業に合わせ拡幅された。明治24(1892)の濃尾地震により被災、翌年改築された。木橋であった納屋橋を近代的な鉄石混用の橋に建て替える工事が明治末期より行われ大正2年(1913)に完成した。

名古屋ホテル名古屋ホテル:名古屋で最初の洋式ホテル志那忠が開業したのは明治20年(1887),明治28年(1895)に名古屋ホテルが開業した。ちなみに東京の帝国ホテルが開業したのは明治23年(1890)年のこと。

堀川堀川:1610年に徳川家康は、名古屋城築城のため福島正則に堀川の堀削を命じました。以来、名古屋を代表する運河として、名古屋市民に親しまれています。

江川線(路面電車)江川線(路面電車):明治45年(1912)、名古屋電気鉄道(株)により江川線(尾頭橋~船方間)が開通しました。大正11(1922)年には、浄心町まで路線は延び、この年、名古屋市が市内の路線を買収し、市電として営業をはじめました。

名古屋駅(大正中頃)名古屋駅(大正中頃):明治22年(1899)東海道全通の時点でも、新橋~神戸間の直通列車は日にわずか往復4本だった。大正時代に入ると乗客数は飛躍的にのび、大正時代中期には年間200万人に達し大正末期には400万人を超えていた。

名古屋駅構内(大正中頃)名古屋駅構内(大正中頃):列車の発着回数も大正末期には1日あたり100本を超え、名古屋駅発着の貨物も明治33年(1900)の年間14万トンから大正末期には年間100万トンをこえていた。旅客と貨物の併用は飽和状態に近づいていた。

名古屋駅前の人力車名古屋駅前の人力車

名古屋国技館(現在の名城小学校)名古屋国技館(現在の名城小学校):辰野金吾博士の設計で、大正3年(1914)に完成した。名実ともに日本一の国技館であったが、人口40万人台の当時の名古屋では入場者数も伸びず、経営も困難になり開館10年も持たず閉鎖されました。

商品陳列館商品陳列館:愛知県商品陳列館は明治末期に商工業の振興を目的として大須門前町に建てられたルネサンス様式の堂々たる建物。主に愛知県の工業製品が陳列されていた。昭和9年(1934)に取り壊された。

大須門前町大須門前町:大正時代に入っても大須は名古屋一の繁華街として繁栄した。敷島館、世界館、電気館、文明館、港館、太陽館などの映画館や歌舞伎座、宝生座、黄花園などの芝居小屋が軒を並べていた。旭遊郭は大正12年(1923)中村へ移転された。

東照宮祭祭礼山車ぞろえ東照宮祭山車ぞろえ:江戸時代を通じて、東照宮祭は天王祭、若宮祭とならんで名古屋3大祭の一つ。戦前まで名古屋祭といえば東照宮祭をさしていた。

那古野神社例大祭那古野神社例大祭:明治9年(1876)に名古屋城内から明倫堂跡地に移転した那古野神社の例大祭は、名古屋3大祭りに数えられていた。明治25年(1892)から山車祭りに替わり神輿が登場する。赤いふんどしの担ぎ手によって若宮八幡社まで巡行する。

瀧兵商店滝兵商店:タキヒヨー株式会社の前身。宝暦元年(1751)古知野(現江南市)で、京呉服・絹織物卸商「絹屋兵右衛門」を開業したのが始まり。文政8年(1825)、二代目兵右衛門が名古屋市東万町に出店。その後尾張大納言家御用達を務め、尾張十人衆に数えられる。 明治8年(1875)御幸本町4丁目へ進出、大正元年(1912)株式会社滝兵商店を設立した。

第八高等学校 (旧制)第八高等学校:明治41年(1908)、全国8番目の旧制高等学校として名古屋に設立された。設立当初は愛知一中の跡地におかれたが、翌年現在の瑞穂区瑞穂町山ノ畑(現在名古屋市立大学山の畑キャンパスがある)に移転。戦後の名古屋大学教養部(現情報文化学部、教養教育院)の前身となる。

豊田自動織布工場豊田自動織布工場:豊田佐吉は、多くの繊維機械を発明し、日本の繊維産業発展に貢献した。明治44年(1911)、栄生の地に豊田自動織布工場とを設立、自動織機の開発に取り組んだ。現在その跡地には産業技術記念館が設立されている。

日本車輌製造株式会社日本車輌製造株式会社:明治39年(1896)に名古屋で創業した老舗。名古屋の車輌生産での圧倒的な生産額を誇っていた。大阪の汽車製造、神戸の川崎車輌と並び三大車輌と呼ばれていた。

名古屋商工会議所名古屋商工会議所:現在の名古屋商工会議所の前身である名古屋商法会議所は明治14年(1881)に創立された。明治23(1890)には名古屋商業会議所に改組。その後新栄から転々としたのち大池町に土地を購入、大正11年(1922)鉄筋コンクリート3階建ての本館を建築した。

岩井通(大正末期)岩井通(大正末期):明治43年(1910)に開催された第10回関西府県連合共進会にあわせ名古屋で初の大規模な道路の改修工事が行われた。明治41年(1908)には上前津から鶴舞の会場に通じる岩井通の拡幅工事が終わった。新堀川にかかる記念橋は、共進会終了後の明治43年(1910)8月に竣工。写真の左手奥に新築された名古屋商工会議所が見える。

http://www.youtube.com/v/mFl5pjMMQhk

文化のみち二葉館(旧川上貞奴邸)
貞奴は生家の没落で7歳のとき芸妓置屋「浜田屋」の女将の幼女となり、成長すると芸妓としてお座敷にあがり才色兼備の誉れも高く、伊藤博文や西園寺公望など名立たる元勲から可愛がられていました。
1894年、自由民権運動家で「オッペケペー節」で一世を風靡した川上音二郎と結婚します。以後、音二郎と行動をともにし、劇団の看板女優として、1900年のパリ万博出演など多くの海外公演(欧米)を行いました。「マダム貞奴」ので国際的な評価を得ましたが、音二郎との活動は波乱万丈、経済的にも肉体的にも苦難の連続でした。後年、貞奴は川上貞奴は日本の近代女優第一号といわれています。
一方、桃介は武蔵国の農家に生まれ、川越で育ちました。その後慶応義塾に入学した桃介は、学生時代に貞奴と出あい恋におちますが、事情も許さず福沢諭吉の娘房と結婚し養子となって福沢桃介となりました。以後さまざまな困難もありましたが、木曽川の水利権を獲得しダムを建設するなど、電力事業に精力をかたむけ「電力王」として名をなしました。
1911年に音二郎が病で亡くなると、まもなく貞奴は舞台から退きました。そんな中で再開した貞奴と桃介は、名古屋に住まいを建て大正から昭和初期にかけてともに暮らしました。和洋折衷の邸宅で二葉町にあることから「二葉御殿」と呼ばれました。財界人の出入りも多くサロンとしての役割もはたしていました。

写真マップ

上で紹介した写真や同時代の写真を現代の地図上に配置しました。

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名古屋市(市町村パビリオン)

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