- 尾張名所図会索引
- No1 桶狭間の戦い
- No2 有松から宮宿へ
- No3 宮宿
- No4 熱田神宮
- No5 熱田から古渡村
- No6 橘町
- No7 大須観音周辺
- No8 大須門前町周辺
- No9 白川公園周辺
- No10 碁盤割1
- No11 碁盤割2
- No12 東照宮祭
- No13 堀川1
- No14 堀川2
- No15 名古屋城
- No16 東寺町
- No17 東武家町
- No18 建中寺・徳川園
- No19 城下町周辺
- No20 浄心・枇杷島
- No21 美濃路清洲
- No22 津島街道
- No23 佐屋街道
- No24 長久手古戦場
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地図
1560年、織田信長と今川義元は桶狭間(愛知県)で戦った。織田信長が少数の軍勢で今川義元を倒した。 織田信長の名を全国に知らした戦い。
今川軍の丸根砦、鷲津砦に対する攻撃の報は、清洲城の信長の元にも知らされる。篭城か決戦かで動揺する織田軍の重臣たちに対して、それまで動じなかった信長は、幸若舞「敦盛」を舞った後 出陣の断を下して桶狭間へと向かう。御前8時ころに熱田神宮に到着した信長一行は戦勝祈願を行った。
永禄3年(1560年)5月18日 桶狭間の戦いの前日、今川義元は沓掛城入城して織田軍殲滅の軍議を開いた。大高城と鳴海城は、今川方の前線基地。織田信長は大高城の間近に鷲津砦、丸根砦を、鳴海城の東側に 丹下砦、善照寺砦、中島砦を築いて今川軍を牽制した。今川義元は松平元康(後の徳川家康)に敵の目前で 大高城への兵糧の運搬を命じ、元康はこの任務を無事終えることができた。翌19日早朝、今川軍は丸根砦に攻撃を仕掛け戦いが開始された。織田軍の守備隊の善戦もむなしく、鷲津砦、丸根砦は 圧倒的な今川軍の前に陥落した。戦勝の報告は義元のもとに伝えられ、織田信長の命運も尽きたと思われた
信長は善照寺砦に入り決戦に備えた。丸根砦、鷲津砦の軍勢は今川軍の先陣に奮戦。敗退するも、信長本体の今川義元本陣の攻撃を助けた。.午後1時ころ、突然の豪雨に見舞われ視界不良に陥った。雨の止んだ午後2時頃、織田信長の精鋭2,000人 による義元本陣への突撃が始まった。戦勝に沸く先陣の兵が知ることなく、短期決戦は義元の死で幕を閉じた。
桶狭間古戦場は、愛知県の豊明市と名古屋市の緑区にまたがる。東海道がすぐ傍を通っている。