- 尾張名所図会索引
- No1 桶狭間の戦い
- No2 有松から宮宿へ
- No3 宮宿
- No4 熱田神宮
- No5 熱田から古渡村
- No6 橘町
- No7 大須観音周辺
- No8 大須門前町周辺
- No9 白川公園周辺
- No10 碁盤割1
- No11 碁盤割2
- No12 東照宮祭
- No13 堀川1
- No14 堀川2
- No15 名古屋城
- No16 東寺町
- No17 東武家町
- No18 建中寺・徳川園
- No19 城下町周辺
- No20 浄心・枇杷島
- No21 美濃路清洲
- No22 津島街道
- No23 佐屋街道
- No24 長久手古戦場
INDEXへ戻る
地図
宮宿は、東海道で最大の宿場。東海道唯一の海路である七里の渡しの渡し場があり、また古くからの熱田神宮の門前町として栄えた。
姥堂は、精進川に架かる裁断橋のほとりある。その昔、川でおぼれた僧侶の衣服を盗んだ老婆はそのたたりで死んでしまう。老婆のさまよう霊を供養して縁者が奪衣婆の像を姥堂に安置しといわれる。
源太夫社(上知我痲神社)は、東海道と美濃路の分岐する追分に建てられていた。知恵の神様として「知恵の文殊(もんじゅ)さま」と呼ばれて崇拝されている。現在は熱田神宮の境内に鎮座している。
熱田天王祭の起源は古く、平安中期頃、熱田周辺で疫病が流行したため洲崎神社、南新宮天王社に人々が旗鉾を持って疫神を奉ったのが熱田天王祭(南新宮天王祭)の始めとされている。 室町中期になると京都祇園祭の影響もあり傘鉾型の山車が参加するようになった。その後、徐々に山車は高くなり、江戸中期には高さ約20mにもなる大山も現れた。 しかし、明治に入ると市内に電線が架けられ大山の引き回しが難しくなる一方、南新宮天王社が熱田神宮内にまとめられ祭例日も尚武祭(熱田まつり)に統一されるなどして明治40年頃には天王祭の継続が困難になった。
熱田の浜の神戸(ごうど)には、豪商や高級武士などの船待ち客を相手にする旅館が立ち並んでいた。鳴海、星崎の遠景を望み、夏には夕涼み、秋には月見など楽しんだ。船着き場には商人たちの荷が山積みになっていたという。
七里の渡しは宮宿から桑名宿まで船で渡る東海道で唯一の海上路であった。その距離が七里であったことから七里の渡しとよばれた。満潮時には沿岸に浮かぶ島をぬうように、干潮のときは沖まで小舟で行き帆かけ舟に乗って旅をした。
現在の熱田区木之免町、大瀬子公園のあたり。近海の魚類はもとより、遠近諸国からは船で、三河の吉田からは徒歩で運ばれた魚を尾張藩指定の六軒の問屋が売りさばいていた。
東海道 裁断橋から七里の渡し場へ
新堀川を渡り、名鉄常滑線のガードをくぐると、かつての精進川と東海道が交差する場所に姥堂、裁断橋跡の記念碑が建っている。裁断橋は豊臣秀吉の小田原征伐に出陣し病死した堀尾金助の霊を弔うため金助の母が老朽化した橋の修築をおこなった。橋の擬宝珠(ぎぼし)には仮名で母が子を思う銘文が刻まれている。明治時代に河川改修により川筋が変わり大正末期には埋立られた。対岸にあった姥堂は奪衣婆(だつえば)の座像を安置している。精進川を徒歩で渡ろうと溺死した僧侶の衣類を盗んだ貪欲な老婆が亡くなりその霊が夜になるとさまよったので縁者が供養のため像を安置したといわれている。
宮宿は熱田神宮のお膝元、本陣2、脇本陣1、旅籠248、家数2924軒、人口10342人の東海道でも最大規模を誇る宿場であった。伝馬町から神戸町にかけて本陣、脇本陣、問屋場、西浜御殿、船番所が建ち並んでおり、往来の人並みが途絶えなかった。伝馬町を進んだ三叉路で名古屋城下へ向かう美濃路と七里の渡しへ向かう東海道に分岐する。その正面に知麻我神社(源太夫社)があった。現在、上知麻我神社は熱田神宮内に移転し、その場所にほうろく地蔵が奉られている。
現在の宮の渡し公園の海上には西浜御殿と対をなすように東浜御殿が沖合を埋め立てて建設され、大名をもてなす貴賓館として使用されていた。江戸時代の熱田は全国有数の歓楽街で、神戸町には高級料亭が建ち並び船出を待つ貴人や名古屋城下豪商の遊興の場となっていた。七里渡しは、宮宿と桑名宿を結ぶ、東海道唯一の海路。また木之免町には朝夕、魚市場が立ち名古屋城下に魚貝類を提供した。