- 尾張名所図会索引
- No1 桶狭間の戦い
- No2 有松から宮宿へ
- No3 宮宿
- No4 熱田神宮
- No5 熱田から古渡村
- No6 橘町
- No7 大須観音周辺
- No8 大須門前町周辺
- No9 白川公園周辺
- No10 碁盤割1
- No11 碁盤割2
- No12 東照宮祭
- No13 堀川1
- No14 堀川2
- No15 名古屋城
- No16 東寺町
- No17 東武家町
- No18 建中寺・徳川園
- No19 城下町周辺
- No20 浄心・枇杷島
- No21 美濃路清洲
- No22 津島街道
- No23 佐屋街道
- No24 長久手古戦場
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現在の地図
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清洲総図
尾張の守護職にあった斯波氏は鎌倉街道近くの下津で職にあたった。斯波義重は、応永12年(1405)清須の地に下津城の出城として清須(洲)城を築城した。 後年、下津城が焼失し守護所は、清須に移転され尾張の中心地となった1478年のことである。 織田家は尾張の守護代をつとめており、清須城を本拠地として政務をおこなった。
1555年、織田家の内紛に勝った織田信長が那古野城から清須へ 移り、大改修を行って居城とした。桶狭間の戦いの出陣や本能寺の変で信長が没したあとの清洲会議など清須城にまつわるエピソードは 多い。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、四男の松平忠吉を尾張藩の当主として清須に派遣し尾張の藩都とした。 松平忠吉は若くして世を去り、家康は九男の甲府藩主 徳川義直を尾張藩主として任命し清須に送った。 清須は五条川が流れ交易には最適だが、来るべき豊臣方との決戦をひかえた徳川家には、低湿地で水攻めに弱い清須は防衛には不適であった。
慶長15年(1610)より清須から名古屋台地の北端への遷府が行われた。世に言う「清須越し」である。 住民と寺社などをそっくり移転する「清須越し」により清須の町は荒廃した。清須の復活は後年、徳川家康によって美濃路の整備が行われ清須宿として 繁栄を取り戻すまで待たねばならない。清須総図は美濃路の清須宿として繁栄した様子を描いている。
尾張名所図会デジタル着色
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清洲総図左
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清洲総図右
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清洲越前の城下図
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高札場前清涼寺
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清洲宿本陣
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清洲城跡
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清洲花火(五条川)
現在の清須城周辺/h4>
美濃路清洲宿から稲葉宿へ
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国府宮夜儺追神事
昼間の激しいお祭が終わり、草木も眠る真夜中の午前三時に庁舎(ちょうや)にお いて斎行される。儺負人(神男)に、天下の厄災を搗き込んだとされる土餅を背負わせ、御神宝の大鳴鈴(おおなるすず)や桃と柳の小枝で作られた礫(つぶて)にて追い立てて、境外へ追い出す。追い出された儺負人(神男)は、家路につく途中土餅を捨てる。この土餅を神職の手により埋める事で、世に生じた罪穢悪鬼を土中に還し、国土の平穏を現出する。この神事が儺追神事の本義であり、称徳天皇の御世より現代に至るまで最も神聖視され重要視されている。 (国府宮公式サイトより)
美濃路稲葉宿から起宿へ
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起の渡し(木曽川)
起宿(一宮市)には3つの渡船場あり、木曽川を渡り羽島市を通り長良川を再び渡って墨俣宿へと向かう水陸交通の拠点として賑わった。