- 尾張名所図会索引
- No1 桶狭間の戦い
- No2 有松から宮宿へ
- No3 宮宿
- No4 熱田神宮
- No5 熱田から古渡村
- No6 橘町
- No7 大須観音周辺
- No8 大須門前町周辺
- No9 白川公園周辺
- No10 碁盤割1
- No11 碁盤割2
- No12 東照宮祭
- No13 堀川1
- No14 堀川2
- No15 名古屋城
- No16 東寺町
- No17 東武家町
- No18 建中寺・徳川園
- No19 城下町周辺
- No20 浄心・枇杷島
- No21 美濃路清洲
- No22 津島街道
- No23 佐屋街道
- No24 長久手古戦場
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地図
江戸時代、堀川には七つの橋が架けられていた。河口近くの尾頭橋は、洪水で頻繁に架け替えられたので新橋とも呼ばれた。古渡橋は河口から二番目に位置していた。日置橋の堀川両岸には、 数百本の桜が植えられ、桜の名所として春になると多くの見物客でにぎわった。
洲崎神社は、その昔入海であったので天王崎と呼ばれた。 素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀っている。また、洲崎神社の北には尾張藩船奉行の屋敷などもあった。広井三蔵は、納屋橋の南、堀川東岸にある尾張藩の米蔵。 福島正則により建設された。当初は三倉であったがその後増築された。
伝馬橋は清洲へと向かう美濃路の一部。伝馬橋を渡り右に曲がり北上し清洲方面へと向かう。中橋から京橋にいたる、堀川西岸に四間道はある。 元禄13年(1700)の大火のあと、防火のために四間(約7メートル)に拡張された。堀川沿いの美濃路に並ぶ豪商の蔵が現在での並んでおり、名古屋で数少ない江戸時代の雰囲気を漂わせている場所。堀川は、建設当初は朝日橋のところが 終着点であった。その後、延長されて庄内川に接続された。
尾張名所図会デジタル着色
日置橋から北、数町にわたって堀川の両岸には数百本の桜が植えられ花見時になると多くの見物客でにぎわった。名古屋城下を代表する景勝地であった。
洲崎神社は「広井天王」や「牛頭天王」とも呼ばれ素戔鳴尊(すさのおのみこと)が祀られている。堀川の開削や武家屋敷の建設のため栄一丁目全域あった神社の土地は大幅に縮小された。江戸時代、洲崎の天王祭は東照宮時代祭と並ぶ2大祭であった。現在は、7月第三土曜・日曜日に提灯祭が行われている。法蔵寺の八角堂は、尾張藩祖徳川義直が名古屋城二之丸御庭に建てた、わが国初めての聖堂を七代藩主宗春が法蔵寺の本堂として移転したもの。八角形であったことから八角堂と呼ばれていた。
*聖堂:孔子やその他の聖賢を祀った堂
福島正則は小田原の北条攻めに出陣し兵糧不足を経験した。その教訓から清州城内に三つの大きな食糧庫を建設した。清州越しで藩都が名古屋に移ると、納屋橋の南の堀川東岸に米蔵を建設し尾張藩の官倉とした。倉の数は以前より増したが、昔どおり三倉と呼ばれた。
元禄13年(1700)に大火事があり、その後防火の目的と商業活動を促進するため四間(約7メートル)に拡張された。その道幅から四間道(しけみち)と呼ばれた。四間道沿いには、今でも堀川沿いの豪商の蔵がならび、名古屋でまれな江戸情緒を保っている。
円頓寺は、桶狭間の戦い(1560年)の前の1654年、現在地より300㍍程南の国際センター付近に創建された。1719年、享保の大火の大火で全焼し、1743年現在地に移転された。慶栄寺は、1504年に創建された寺院。尾張藩の首都が名古屋に移転されたので、この寺も名古屋に移転した。1724年に、火災で被害を受けたため現在地に移転した。名鉄の堀川駅と市電の駅が近くにあったため昭和時代の中頃まで大須と並ぶ商店街として繁栄した。円頓寺商店街は、円頓寺の門前町として昭和時代の中頃まで大須と並ぶ商店街として繁栄した。名鉄の堀川駅と市電が廃止されると、衰退が始まった。2000年ころから町おこしの活動が盛んになり、現在は古き良き時代の面影を残す地区として注目を浴びている。
堀川は、当初は図の中央に描かれた朝日橋で止まっており、名古屋城の濠から湧き出る水が堀川に滝のように流れていた。この湧き水が枯渇し、堀川の浄化をするため庄内川に接続する用水が掘られた。朝日橋の上には、堀留の跡を示す石碑が置かれている。現在、遊覧船が堀川を運行しており、朝日橋の下に、その船着場が設置されている。