- 尾張名所図会索引
- No1 桶狭間の戦い
- No2 有松から宮宿へ
- No3 宮宿
- No4 熱田神宮
- No5 熱田から古渡村
- No6 橘町
- No7 大須観音周辺
- No8 大須門前町周辺
- No9 白川公園周辺
- No10 碁盤割1
- No11 碁盤割2
- No12 東照宮祭
- No13 堀川1
- No14 堀川2
- No15 名古屋城
- No16 東寺町
- No17 東武家町
- No18 建中寺・徳川園
- No19 城下町周辺
- No20 浄心・枇杷島
- No21 美濃路清洲
- No22 津島街道
- No23 佐屋街道
- No24 長久手古戦場
戦国時代の海岸線
名古屋城下の本町通を起点として五条橋を渡り美濃路と合流、新川橋西詰で美濃路と分岐して甚目寺、勝幡を経由して津島に向かう街道。織田信長が活躍した時代には勝幡や津島は海運により商業を活発におこなっていた。
尾張名所図会デジタル着色
法界門橋と萱津神社
日本武尊が東征の帰途、萱津に立ち寄り里人の出した「塩つけもの」を食べ大変喜ばれたと伝えられている。「塩つけもの」は海水から作った塩と野菜を神前の瓶に入れたもので、漬物の起源と言われている。 萱津神社は漬物の神様として知られ、毎年8月21日に催される“香の物祭”は全国唯一の漬物の神様の祭で、あま市無形文化財に指定されている。
甚目寺観音
597年、伊勢国甚目村の漁師龍麿という者が尾張国の入り江で投網をしていたとき、金色の聖観音像を引き上げ入り江のかたわらに草堂を建て観音像を安置し、自らの姓氏をとり甚目寺(はだめでら)と名付けたのが寺の創建にまつわる伝承として残っている。聖観音像は釈尊の授記を受けて作られたもので、信州の善光寺の本尊と共に百済をへて日本へ渡り、585年に海中に投じられた三像仏の内の一尊といわれている。天智天皇が病気になったとき、甚目寺で祈祷したところ快癒したということから、甚目寺は勅願寺となった。
甚目寺観音左
甚目寺観音右
甚目寺観音詣
津島神社は、スサノオノミコトを御祭神とし、1470年余の歴史を誇っている。全国に3000以上点在する津島神社の総本社でもある。津島神社の大祭「津島天王祭」は、日本三大川まつりのひとつに数えられ、7月の第4土曜日とその翌日に開催される。
津島神社
津島神社左
津島神社中
津島神社右
尾張津島天王まつり
旧津島5ヶ村の今市場(いまいちば)、筏場(いかだば)、下構(しもがまえ))、堤下(とうげ)、米之座(こめのざ)から5艘のまきわら船が出され天王川に浮かぶ。 まきわら船に飾り付けられる半円・山型の提灯の数は365個あり、提灯の数は1年をあらわしている。まきわらの中心から縦に伸びる真柱(まばしら)には月をあらわす12個の提灯が掲げられています。御旅所は天王川公園北端にあり、宵祭・朝祭を御神覧される神輿が津島神社から遷座する。この遷座を「神輿渡御(みこしとぎょ)」といい、宵祭日の午前中、津島神社から御旅所へと行列をなして神輿が運ばれる。この神輿が津島神社から外に出るのはこの時だけ。提灯で浮かび上がる5艘のまきわら船は一艘づつ御旅所前に接岸し、町衆の代表らが一年の疫病・災厄除けを願って御旅所にて参拝する。
尾張津島天王祭り宵祭
一夜明けての朝祭には、宵祭りとは飾り付けをガラリと変えた5艘の船に、朝祭りの主役である旧市江村の市江車を加えた6艘の車楽船(だんじりぶね)が 登場する。 車楽船の屋台上には能の演目を表現した人形が飾られ宵祭に参加した5艘中、先頭を行く当番車には必ず「高砂」が乗り、その他の4艘は毎年人形が変わる。先頭の市江車には布鉾を持った10人の若者が締め込み姿で乗り込む。神社の使者による迎えを受けると布鉾を持った10人は天王川へと次々に飛び込み御旅所まで泳ぎ渡り、神社まで走って神前に布鉾を奉納する。この奉納された布鉾のしずくを患部につけると病気やケガが 治るという言い伝えがある。午前10時頃、6艘の車楽船が御旅所に到着し、各船に乗っていた6人の稚児らが上陸し終わると御旅所の神輿を津島神社にかえす「神輿還御」が行われる。御神体の戻った本殿にて稚児による神前奏楽が執り行われると朝祭がの終了となる。
尾張津島天王祭り朝祭
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