- 尾張名所図会索引
- No1 桶狭間の戦い
- No2 有松から宮宿へ
- No3 宮宿
- No4 熱田神宮
- No5 熱田から古渡村
- No6 橘町
- No7 大須観音周辺
- No8 大須門前町周辺
- No9 白川公園周辺
- No10 碁盤割1
- No11 碁盤割2
- No12 東照宮祭
- No13 堀川1
- No14 堀川2
- No15 名古屋城
- No16 東寺町
- No17 東武家町
- No18 建中寺・徳川園
- No19 城下町周辺
- No20 浄心・枇杷島
- No21 美濃路清洲
- No22 津島街道
- No23 佐屋街道
- No24 長久手古戦場
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白山林(はくさんばやし)の戦い
池田恒興による中入り作戦(敵の陣を迂回して手薄になった家康の本拠岡崎を攻めて小牧山から誘き出す)を秀吉は承認。池田恒興父子6000人と森長可以下3000人が先鋒、次鋒として岡崎に向かった。この動きを察知した徳川家康は背後を突くため、丹羽氏次を案内役にし、榊原康政1550人、大須賀康高1850人、水野忠重800人を先発に、自らも井伊直政3000人を先鋒に、家康(本隊)3300人、織田信雄3000人の部隊を率いて小幡城へ入城した。家康は最後尾の三好秀次隊を攻撃するため丹羽氏次・水野忠重と榊原康政・大須賀康高らによる別働隊4500人を攻撃に向かわせた。
大部隊で動きの緩慢な三好秀次隊は、白山林(名古屋市守山区)で休息を取っていた。別働隊は奇襲攻撃をかけて三次秀次の本隊を壊滅させた。自らの馬を失った秀次は、木下勘解由の馬を借りて何とか窮地を脱することができたが、勘解由は木下祐久などとともに討死した。現在も木下勘解由塚が長久手市に建てられ弔われている。
桧ケ根(ひのきがね)の戦い
三好秀次隊の前を進む堀秀政の元に白山林で秀次敗北の報が届いた。堀秀政隊は、直ちに引き返し桧ケ根に陣を構えて、追撃する徳川軍別働隊に備えた。堀秀政は榊原康政隊の猛攻を退け、この戦いは秀吉軍の勝利に終わった。
一方、徳川家康本隊は迂回して桧ケ根の東方に位置する色金山に本陣を置いていた。家康は、榊原康政隊の桧ケ根での敗戦を知ると、陣を前に進めて桧ケ根の南東に位置する御旗山に移動し、堀秀政隊と池田恒興父子、森長可隊の分断を行った。堀秀政は眼前に徳川軍の旗印の金扇を見て、形成不利と判断し軍を撤退させた。
尾張名所図会デジタル着色
岩崎城の攻防
岩崎城は旧織田家の家臣で、その後徳川家康に仕えていた丹羽氏次の居城として秀吉軍の進軍に備えていた。このとき丹羽氏次は徳川家康の軍に従軍していたため、弟の氏重と長久手城主・加藤景常に200余名の兵を託し守備を任せていた。
池田恒興父子、森長可の軍勢は本来ならば、城攻めで時間を浪費することなく家康の本拠、岡崎に直行するべきであったが、岩崎城からの銃撃を受け、池田恒興は挑発にのって城の攻撃を命じた。約2時間の戦闘の末、多勢に無勢、岩崎城は落城し丹羽氏重と加藤景常は討ち死にした。城攻めには成功したものの、時間の浪費が秀吉軍の敗戦の一因となった
仏ケ根(ほとけね)の戦い
そのころ、秀吉軍の先発隊は、朝食をとりながら首実験を行っていた。三好秀次の報が届き急遽、長久手方面へ引き返す。家康軍は御旗山から前山に陣を構えて秀吉軍に万全の体制で備えていた。左右に、井伊直政軍3000、家康本隊3300、それに予備隊織田信雄軍の3000が、池田、森両軍を見下ろす山の斜面に陣を張った。一方、池田、森軍も9000の軍勢でにらみ合った。
合戦が始まると、長久手(長湫)と呼ばれるように湿地帯に布陣する秀吉軍は、機動力をそがれ、さらに山の傾斜地から放たれる銃弾に見舞われた。まず、森長可が眉間に銃弾を受けて討死、池田恒興も討ち取られた。池田輝政は戦線を離脱し落ち延びた。戦いは徳川軍の大勝利に終わった。
両軍の撤退
家康はすぐさま小幡城に軍を引き返す。敗戦の報を受けた秀吉は、軍を率いて竜泉寺に向かった。小幡城の家康を攻撃を決めるが、この頃家康は小幡城でて小牧山へ、そして清洲城に帰還した。これを知った秀吉は軍の撤退を決め大阪へ向かった。秀吉と家康は直接戦った唯一の合戦は、徳川家康の勝利で幕を閉じた。