- 尾張名所図会索引
- No1 桶狭間の戦い
- No2 有松から宮宿へ
- No3 宮宿
- No4 熱田神宮
- No5 熱田から古渡村
- No6 橘町
- No7 大須観音周辺
- No8 大須門前町周辺
- No9 白川公園周辺
- No10 碁盤割1
- No11 碁盤割2
- No12 東照宮祭
- No13 堀川1
- No14 堀川2
- No15 名古屋城
- No16 東寺町
- No17 東武家町
- No18 建中寺・徳川園
- No19 城下町周辺
- No20 浄心・枇杷島
- No21 美濃路清洲
- No22 津島街道
- No23 佐屋街道
- No24 長久手古戦場
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地図
堀川は、名古屋城築城とともに熱田台地の西端を開削して作られた運河。徳川家康の命により福島正則が 工事をおこなった。白鳥に材料置場・船置場として大池が掘られた。
高台にある本遠寺からは熱田沖が一望 できた。法持寺のとなりにあった白鳥陵は、6世紀初頭に築造されたと伝えられる前方後円墳。死後、白鳥となって この地に戻った、日本武尊の墓と伝えられている。 断夫山古墳は、東海地方最大の前方後円墳。日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃、宮簀媛命(みやすひめのみこと)の墓として伝えられている。年に一回だけ立ち入りが許されていた。
沢観音は、熱田神宮の周辺にあった四観音のひとつ。境内から鈴鹿山系も望まれる名古屋三景のひとつであった。
尾張名所図会デジタル着色
本遠寺境内から見た熱田沖。右手に御船蔵、左手に宮宿が見え知多半島へと続いている。本遠寺の前身法華堂は、約1200年前桓武天皇の勅命で最澄が熱田神宮境内で100日間法華経を読誦した時、信者から寄進された法華堂。建長5年(1253)日蓮聖人伊勢神宮の帰途、熱田神宮にも参拝された。その孫弟子日澄上人は近国の布教に努めた。本遠寺はその布教のために信者の寄進により法華堂を現在地に移転、増築し創建された。
白鳥古墳は、5世紀末頃から6世紀前半頃に築造された前方後円墳で全長が約74m、最大幅25mの大きさを持つ。法持寺のすぐ隣にあるこの古墳は、白鳥となってこの地に戻った、日本武尊の墓と伝えられている。
断夫山古墳は、東海地方最大の前方後円墳。尾張の豪族の娘で日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃、 宮簀媛命(みやすひめのみこと)の墓として伝えられている。普段は立ち入り禁止となっていたが、3月3日の桃の節句だけは入山が許され、熱田沖を展望することが出来た。
商人であった津田富春が高蔵宮のそばで沢という所にあるさびれた観音堂の本尊を移して建てた臨済宗の寺院。熱田神宮の周辺にあった四観音のひとつで、堀川沿いにあり遠くは鈴鹿山系も望まれる名古屋三景のひとつ。
享保19年(1734)、堀川を行き交う船の安全を祈って大阪の住吉神を勧請した。当初は新尾頭町道筋東側の小堂内に鎮座していたが、宝暦12年(1762)堀川沿い東岸に移転された。かつては伊勢、知多、熊野の沿岸にまで住吉神社の威霊は及んだと伝えられる。