- 尾張名所図会索引
- No1 桶狭間の戦い
- No2 有松から宮宿へ
- No3 宮宿
- No4 熱田神宮
- No5 熱田から古渡村
- No6 橘町
- No7 大須観音周辺
- No8 大須門前町周辺
- No9 白川公園周辺
- No10 碁盤割1
- No11 碁盤割2
- No12 東照宮祭
- No13 堀川1
- No14 堀川2
- No15 名古屋城
- No16 東寺町
- No17 東武家町
- No18 建中寺・徳川園
- No19 城下町周辺
- No20 浄心・枇杷島
- No21 美濃路清洲
- No22 津島街道
- No23 佐屋街道
- No24 長久手古戦場
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地図
徳川家康は名古屋城の南側を碁盤の目のように四角く区画して町人の住居とした。碁盤割と呼ばれている。1660年、万治の大火が起こり城下町の大半を焼き尽くした。碁盤割の南端堀切筋は4倍以上拡幅され広小路(久屋町から長者町まで)が建設された。広小路は名古屋を代表する通として現在に至っている。美濃路の名古屋宿にあたる伝馬会所は公用人馬の取次所。高札場も置かれ、名古屋城下町の中心部として明治時代中頃まで繁栄した。
尾張名所図会デジタル着色
徳川家康は名古屋城下建設時、名古屋城の南の区域を碁盤の目のように区画し「碁盤割」と呼んだ。広小路ができる前は堀切筋と呼ばれ道幅三間(3.64m)の狭い道であった。万治3年(1660)万治の大火と呼ばれる大火事が発生し城下町の大半を焼き尽くし、それを契機に久屋町から長者町までの区間が4倍以上拡幅され広小路が建設された。以後、現在にいたるまで名古屋を代表する道として使われてる。夏の夜は涼を求めて多くの人が芝居、物まね、居合抜きの芸を夜が更けるまで楽しんだ。
朝日神社は伊勢神宮の神領であった清洲の朝日郷にあったが、清洲越しの際に移転された。碁盤割の守護神として崇拝された。
浅井家は尾張藩の侍医を勤めるかたわら、医学館という医学塾をつくり医師の試験も行っていた。 毎年六月十日に万国の物産や動物を公開し、多くの見物人が集まった。
紀州和歌山の浅野幸長の家臣であった小見山家は、幸長の娘春姫が尾張藩祖徳川義直に嫁いだのをきっかけに尾張藩に随行した。 後に、尾張藩医となった小見山宗法は、尾張藩の筆頭の薬屋として繁盛した。
聖徳寺は天台宗、野田密蔵院の末寺。もともとは円光寺吉祥院と呼んでいたのを、聖徳太子の自作の像を本尊としたので、今の寺号に改めた。
美濃路はここで西に折れ本町通と分岐する。本陣や脇本陣はなかったが、伝馬町本町交差点の南東角に公用人馬の取次所である伝馬会所がおかれた。「札の辻」とよばれる高札場や丸栄百貨店の前身十一屋も店舗を構えていた。また現在の国道19号線に沿って中山道へぬける、下街道(善光寺街道)の起点ともなってた。