- 尾張名所図会索引
- No1 桶狭間の戦い
- No2 有松から宮宿へ
- No3 宮宿
- No4 熱田神宮
- No5 熱田から古渡村
- No6 橘町
- No7 大須観音周辺
- No8 大須門前町周辺
- No9 白川公園周辺
- No10 碁盤割1
- No11 碁盤割2
- No12 東照宮祭
- No13 堀川1
- No14 堀川2
- No15 名古屋城
- No16 東寺町
- No17 東武家町
- No18 建中寺・徳川園
- No19 城下町周辺
- No20 浄心・枇杷島
- No21 美濃路清洲
- No22 津島街道
- No23 佐屋街道
- No24 長久手古戦場
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名古屋城を徳川園にかけては、閑静な住宅街が広がっている。この地域は江戸時代には中級武士の屋敷が集積していた。明治時代に入ると名古屋財界の重鎮たちがこの地区に邸宅を構えるようになった。現在でもその多くが残されており、「文化のみち」と呼ばれ歴史建造物を見学する市民に親しまれている。
尾張名所図会デジタル着色
七尾天神社は、文亀年間(1501~4)に、天神池に七つの尾を持った霊亀(亀)が菅原道真の木像を背負って現れたことから始まります。天神像を背に、また、口に梅の小枝をくわえ、現地にあったほこらに入り天神像と梅の小枝を残しその際、霊亀は、樹の下の石の上に菅公像を置き、その石の周りを七度まわり姿を消しました。それを見ていた修行僧が、みずから七つの尾の霊亀を刻み、それを神座とし、菅原道真公像を草庵に安置しました。
(七尾天神 由緒)
山吹谷公園一帯は、江戸時代山吹の花の咲く景勝地であった。
徳川家康の四男の松平忠吉により清洲に建立されたが、清洲越し(1610)により名古屋へ移転された。
養念寺の裏庭にある「烏が池」は約三十坪ほどの大きさで、泥土が黒い為、水が黒く見えることから「烏が池」の名前がついたと言われいる。黒い池は珍しく風雅を誘ったのか、烏が池庭園は、江戸時代名園として知られ多くの文人墨客が訪れ、池を愛でた詩歌を詠んだと『尾張名所図会』にも記されている。
(養念寺ウエブサイト参照)