昭和の日本その1(1926~1941)太平洋戦争勃発まで
昭和4年(1929)10月に起こったニューヨーク株式市場の暴落は、世界恐慌の発端となりました。翌年には日本にも波及し、関東大震災と昭和金融恐慌で弱体化していた日本経済を直撃しました。
同時に行った金解禁により輸出は激減し多くの企業が倒産し、街は失業者があふれ農村では娘の身売りなどが相次ぎました。このような惨状のなか満州事変や五・一五事件、ロンドン海軍軍縮条約の破棄、二・二六事件など政党の支配は弱まり軍部の暴走がはじまり太平洋戦争とすすんでゆきます。
昭和初期の名古屋の人口推移
昭和初頭の名古屋市(CG)
昭和初頭の名古屋市を名古屋港から名古屋城まで本町通に沿って、地図をCG化して紹介しています。
変貌する都心、広小路の歴史
名古屋城下の中心部(現在の中区丸の内1,2,3丁目、錦1,2,3丁目)は、碁盤の目のように区画され「碁盤割り」と呼ばれていました。熱田へと連なる本町通が道幅五間(約9m)であったのに比べて、他の道路は二間から三間にすぎませんでした。碁盤割の南端にあった堀切筋(のちの広小路)も城下建設当初は道幅三間(3.64m)の道路で、民家もまばらでした。城下建設から50年を経た万治3年(1660)万治の大火と呼ばれる大火事が発生し城下町の大半を焼き尽くしました。その後久屋町から長者町までの区間が4倍以上拡幅され広小路となりました。左義長火事(名古屋広小路ものがたり)
明治19年(1886)笹島に名古屋駅が建設され、それにあわせて堀川から駅までの拡張工事が行われました。明治31年(1898)年には、愛知県庁のある久屋から名古屋駅のある笹島まで、京都についで全国で二番目となる市電の運転が開始され「チンチン電車」の愛称で親しまれました。広小路の拡張(名古屋広小路ものがたり)
大正時代も終わり昭和時代に入ると、広小路沿線には銀行やデパートなどが立ち並び西欧風の建物は名古屋市民に近代化の息吹を感じさせました。 日本生命と野村銀行(名古屋広小路ものがたり)
昭和初頭の広小路(CG)
昭和初頭の広小路の様子を、地図をCG化し写真を交えて紹介した映像です。
100万都市へのあゆみ
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