- 尾張名所図会索引
- No1 桶狭間の戦い
- No2 有松から宮宿へ
- No3 宮宿
- No4 熱田神宮
- No5 熱田から古渡村
- No6 橘町
- No7 大須観音周辺
- No8 大須門前町周辺
- No9 白川公園周辺
- No10 碁盤割1
- No11 碁盤割2
- No12 東照宮祭
- No13 堀川1
- No14 堀川2
- No15 名古屋城
- No16 東寺町
- No17 東武家町
- No18 建中寺・徳川園
- No19 城下町周辺
- No20 浄心・枇杷島
- No21 美濃路清洲
- No22 津島街道
- No23 佐屋街道
- No24 長久手古戦場
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地図
美濃路の名古屋宿にあたる伝馬会所で、本町通と美濃路は分岐する。本町通は北に向かい名古屋城へ通じていた。桜天満宮は、菅原道真のお告げに従い織田信秀(織田信長の父)により創建されたと伝えられている。毎年二月二十五日には桜天満宮祭礼では本町通で植木市が開かれにぎわった。広井八幡宮(泥江縣神社)の祭礼では、神輿が材木町の白山社まで渡御された。梵天祭は江戸中期に名古屋で流行した祭。東照宮の祭礼の十六日には魚の棚通に見物客相手に弁当などを販売し夜までにぎわった。京町筋は名古屋城の南に位置し、北側一帯には、藩の役所や藩校などがあった。茶屋町は京町筋に面した本町通の西、松坂屋の前身のいとう呉服店の店舗があり、明治時代末期まで営業していた。
尾張名所図会デジタル着色
織田信秀(織田信長の父)が京都の北野天満宮に参詣したとき、夢枕に現れた菅原道真のお告げに従い創建したといわれる。神木に桜の大樹が多かったので桜天満宮と呼ばれた。現在、敷地は縮小されたが桜通の南側に面して鎮座している。
本町通は名古屋城と熱田を結ぶ基幹道路として名古屋城築城とともに誕生した。碁盤割と呼ばれる城下を碁盤の目のように区画された中心を南北にはしり、本町通四丁目を南に下ると碁盤割の南端広小路に交差する。名古屋城下でもっとも賑やかな地域であった。大丸の店の前では毎年二月二十五日桜天満宮祭礼前後の三日間に植木市が開かれた。
本町通三丁目は碁盤割の中心部に位置していた。毎年二月二十五日には桜天満宮祭礼が開かれた。祭礼の前後の三日間は植木市が開かれ、近隣の村からも植木を売る村人が店を並べまるで森の中を歩くような錯覚におちいった。
広井八幡宮の祭礼は9月(旧暦8月)におこなわれ、傘のまわりを華麗な模様をほどこした布で覆い、傘の上には趣向を凝らした飾りをつけた傘鉾と神輿が白山社(材木町)まで渡御する。
宝暦13年(1763)に、名古屋で流行した祭。 商家の子供たちが、剣形や箱祓を竹ざおの先に取り付けた梵天(ぼんてん)を持って、 笛太鼓に合わせて練り歩き、夜には提灯を持って集まった。 竹で出来た骨組みに紙や布を張ったハリボテがたくさん登場する大仮装行列。
堀川東岸の木挽町、久屋町筋(東西を走る道を筋と呼んだ)には魚を売る店が多く魚の棚と呼ばれていた。東照宮の祭礼の十六日には見物客相手に弁当などを販売した。家ごとに提灯を掲げ、芸妓が赤たすきで手伝っている。
慶長16年(1611)、織田信長の家臣伊藤源左衛門祐道が名古屋の本町で呉服小間物商を始めた。その後、万治2年(1659)祐道の遺児・祐基が茶屋町に呉服小間物問屋を開業。「現金売り正札付き掛け値なし」の商法は庶民の支持を受けた。明和5年(1768)上野の松坂屋を買収、いとう松坂屋と改めた。