にほいも高き京町―少彦名神社
京町通り、名城小学校西にある小彦名神社
『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』は、京町の町名由来を次のように述べている。
当町、名を京町と申候事は、在清須の節より斯申候。清須本町の近所、京町と申所田畑に成候へば、今字に京町と取扱申候。扨京町と名付候旧緒の儀、慶長十四丙年と申伝候。清須におゐて京都より商人数多参り、呉服物・細物・太物類の商売相始居住仕候故、町名も京町と申候由申伝候。就中名古屋へ引越来り候而も、右の旧号を用ひ、京町と唱申候。
京都から呉服物を扱う商人が、大勢清須に移り住んでいた。清須越で名古屋に移り、旧名をそのまま用いて京町と呼んだのが町名の由来である。
京町筋は、現在の外堀通の一筋南、本町通りから大津町筋まで東西にのびた通り。江戸時代は本町筋から七間町筋までを両替町、七間町筋から伊勢町筋を京町、伊勢町筋から大津町筋を諸町と呼んでいた。
両替町の由来は、慶長十八年(一六一三)に清須越の両替商が九軒店を構えたからである。
清須では片町と呼ばれていた地に住んでいた人々が、慶長十五年(一六一〇)、名古屋に越してきて住んでいた町が諸町、清須越当時は通りの片側にだけ家が建ち並んでいたので片町とよばれていた。元和二年(一六一六)、通りの両側にも町家が建ったので、片町を改め諸町と呼ばれるようになった。
明治五年(一八七二)、三つの町が合併し両替町となり、明治十一年(一八七八)に京町と改名された。
『名古屋甚句』では、「都に負けない京町」と歌われ、『雑談記』には「御城下のつい割出しの筋なれば、煌々としてひんの能きかな」と評されるほど、富裕な町家の並ぶ、名古屋の中心の町であった。
清須越の当時は薬種商の「御用製 紫雲 公儀願済 長崎直売御免」の唐物薬種問屋、生田治郎八。「此薬は古へ今川義元の家累代の秘法なりとぞ」と言われた気付薬の赤龍丹の発売元、日野屋六左衛門。「価銀四匁五分 山帰来解毒湯」の発売元山口利兵衛が呉服商と軒を並べて商売をしていた。
少彦名神社は大国主命と少彦名命の二柱の神様を「薬祖神」として祀る
呉服屋の街、京町が大坂の道修町に匹敵する薬種街になったのは、安政二年(一八五五)の薬種商、井筒屋伊助の風呂場から火の手があがり、京町全体が灰塵に帰してしまった大火後である。この火事で井筒屋だけでも八千両の薬品が燃え尽きてしまった。
京町は瀬戸、多治見、小牧の各街道を通る馬の集合地であったため、地方への薬の供給地となって発展していった。
時代は変わっても京町は薬臭い町であった。昭和十一年には薬屋が三十二軒、医療器具店が五軒、狭い町の中に軒を並べていた。
大きな薬問屋としては明友商会、荒川長太郎合名会社、鈴木東七商店、中北商店があった。
江戸時代から商売を京町で続けているのが中北薬品だ。中北薬品の創業は延享四年(一七四七)のことという。中北薬品の成功は、明治初期、同業者に先がけて、洋薬を輸入し、これをいち早く売り出したからだ。
薬の街、京町に大正時代の初め薬祖神社が建てられた。町内の薬種商の繁栄を祈るために迎えられたものであるが、現代に至るも薬の神様の祭礼は盛大に行われている。
春、四月の東照宮祭には、京町からは小鍛冶からくりの山車がくり出された。
狐と成て仰向く槌うち
嗚呼上手かな三条小鍛冶
湯加減よりも是糸加減
忽ち出来た刀ひとふり
と詠まれるほどの人気を博したからくりであった。