片岡源五右衛門名古屋の別れ―高岳院
高岳院という寺の名前は、家康の八男、仙千代の法号に由来している。『那古野府城志』によれば、慶長五年(一六〇〇)三月七日に亡くなった仙千代を甲府の教安寺に葬り、高岳院という院号をつけたと記してある。
『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』は、仙千代の誕生は慶長六年(一六〇一)、死亡年月日は慶長十一年(一六〇六)二月七日としている。
慶長十三年(一六〇八)平岩親吉が、寺を清須に移し、高岳院と改めた。開山は寂誉上人である。
慶長十六年(一六一一)、清洲城とともに、寺は名古屋の地に移された。相応院(お亀の方)が建てられたという。高岳院の大門は清須の城門が移されたものだ。
徳川家康の八男 仙千代の菩提を弔う高岳院. 慶長16年に清須越で現在の場所に移転
高岳院は広大な敷地を有していた。境内は東一五間(約二三メートル)、西九五間(約一七三メートル)、南一〇二間(約一八六メートル)、北八三間三尺(約一五一メートル)もあった。
高岳院の前には、門前町ができあがった。町は南北で、西は富士塚町に接し、南は駿河町、北は善光寺筋に続いていた。
その高岳院の門前町に四十七士のひとり片岡源五右衛門高房の生家があった。
高房は、尾張藩士、熊井十次郎の次男として寛文八年(一六六八)に山口長久寺筋の熊井家で出生した。八才の時、播州赤穂家の家臣、片岡六左衛門の養子となり高房と号した。
熊井家は山口長久寺筋から武平町、さらにその後高岳院前に引っ越してきた。
片岡源五右衛門が討ち入りに際し、それとなく父親に別れを告げるために、名古屋に来た時の記述が『金鱗九十九之塵』に載っている。
突然、目の前に現れた息子を見て、十次郎はまっ赤になって怒鳴った。
「お前が、このように浪人をして、見すぼらしい格好で、わしの前に姿を現すのも、もともと原因は吉良上野介のためではないか。武士として何か考えることはないのか」
源五右衛門は、父親に対して、「そのために、今日、お別れにきたのです」と言いたいのを我慢をし、じっと下を向いて、父の叱る声を聞いていた。吉良邸に討ち入ることは、たとえ父親に対しても秘めなければならない大事だ。
「浪人となりまして、どうにもならない貧しいくらしをしております。これから江戸に行き、よい奉公先を見つけたいと思っております」
これが父親との最後の別れだと思うととめどもなく涙が流れてきた。
父親は、源五右衛門の心中を理解できずに、ただひたすら「情けない奴だ、赤穂には本当の武士は誰もいないのか。わしがお前なら、たとえひとりでも吉良の屋敷に討ち入るぞ」といきまいた。
源五右衛門は、父親の言葉をありがたいと思いつつも、何も言えずに、言葉少なに最後の別れを告げて江戸に上っていった。
元禄十五年(一七〇二)十二月十四日、赤穂四十七士は吉良邸に討ち入り、上野介の首をとった。
赤穂浪士の挙は、名古屋の城にもまたたく間に伝わってきた。
父親は討ち入りの報を聞くと小躍りをして喜んだ。しかし、江戸から伝わる話を聞いても、源五右衛門が四十七士の中の一人だという報は入ってこなかった。
直情径行の父親は、源五右衛門が討ち入りの仲間に入っていないと思いこんでしまった。
歯ぎしりをしながら、「さても、さても口惜しいことだなあ、伜めは武士の家に生まれながらも、なんとも情けない奴だ」と恨み、歎きながら、もろ肌をぬいで腹を切ろうとした。
あわててかけつけた長男が「先ず、先ずお静まりください。うわさだけで真相は何ひとつわかっておりません。源五右衛門は、別れにきた時、最後に『今度、江戸に下ったならば、きっとすばらしい返事を差しあげることができるかも知れません』と言ったではありませんか。あれは、仕官の報せではなく、討ち入りをするという暗示ではなかったですか。もう少し、はっきりした報せがくるまで気を静めて待っていて下さい」となだめた。
待ちに待った江戸からの書簡が届いた。開いてみると「片岡源五右衛門、敵上野介を突留し由」と書いてある。この時、父親は思わず躍り上がって喜んだ。
その後、熊井十次郎の家に、芝の泉岳寺まで上野介の頭を包んだ帛紗と、源五右衛門が使った手槍とが遺品として送られてきた。
源五右衛門と同時代の人、『鸚鵡籠中記』の作者、朝日重章は、源五右衛門が吉良邸に討ち入るとすぐ、熊井十次郎に対して「遠慮」の沙汰があったことを記している。「遠慮」とは自宅謹慎の罰である。討ち入りを徒党をくんでの非合法の暴力であるとする藩の処置であろう。しかし、その処置もすぐに解除された。四十七士をほめそやす世論におされての対応であった。
源五右衛門と父親との別れは『葎の滴』にも記されている。
源五右衛門が、上野介を討つため江戸へ下った時、熱田を通り過ぎる時、実父に別れを告げるため夜中に来て門を叩いた。父親は怒って、対面を許さなかった。家に飼っていた鶏を手に提げて出てきて、其の首をはねて源五右衛門に示し、一言も言葉を交わさず、家の中に入った。
源五右衛門は父親の気持ちを理解し、対面をあきらめ、家を出た。討ち入りをすることは、深く秘めたことであるので、父親にも話すことはできなかった。
父親は、源五右衛門が討ち入りの意志がないものと思い、怒ったのであった。