【番外】雲龍水引─下前津
江戸時代末の下前津付近の地図文政七年十二月二十五日の午後三時頃、飴屋町下筋から出火した。またたく間に、経堂筋を焼き払い、中筋から不二見まですべて灰塵に帰してしまった。焼失地域は南北は約五丁(五五〇メートル)、東西は五、六丁に及んだ。
火事の凄まじさを表すエピソードが残っている。経堂筋松下の角の紺屋の帳面が、火事のために空高く舞い上がり、岡崎まで飛んでいった。二十八日、岡崎の橋の上で、この帳面を拾った人があったという。
火事の前日、托鉢姿の老僧が前津に現れて、「ここから、ここまで。ここはここまで」とぶつぶつひとり言をつぶやきながら、横町の奥までも歩きまわっていた。ちょうど焼失した地域が、老僧の歩きまわった地域と重なった。焼跡に立ち、人々は「あの老僧が火の神の化身であった」と噂した。
奇跡的に焼失をまぬがれた家があった。高名な画家、張月樵の屋敷だ。
月樵は、常日頃から秋葉三尺坊を尊仰していた。火事になると月樵は、三尺坊の御札を竹竿の先に挟み、屋根に上り、火の粉を一心になって払った。月樵の日頃の信心のおかげで彼の家だけが助かったという。
火事は、水がなければ消すことができない。月樵の描いた龍の絵が水を呼ぶという伝説が前津の地に残っている。伝説の絵は、前津天王社の祭礼に立てる提灯屋形の水引(屋台の上方に横に張る細長い幕)に描いた雲龍の絵だ。あまりにも迫真の絵なので、水を呼ぶという伝説が生じた。
天王社の周囲の道は狭く、大きな屋形を立てることができない。不二見筋と天王横丁の丁字形をした路の角に斜めに屋形を立て、七つの提灯をつけた。巾一尺五寸(四十五センチ)、長さ三丈(九メートル)の水引に描いた水墨画の雲龍は、水気がしたたり落ちるようで、龍もまた実に力強い雄渾な筆致で描かれていた。
文政末に月樵は水引に雲龍を描いたが、この絵の評判はまたたくまに広まり、日置や熱田からも見物に人々が押し寄せたという。出色のできばえに、いつしか人々は、祭の日にこの水引を出すと龍が雲を呼び,雨を降らすと信ずるようになった。水引は仕舞われたままで、祭の日に出されることはなかった。
水引の龍が、雨を降らすという話が近郊の村にも伝わった。
日照りが続き、秋の取り入れが心配される年には、井戸田や御器所の村からも、この水引を借りに来て、鎮守の社に祀り、雨乞いをしたという。山田秋衛『前津旧事誌』に載っている話である。
月樵は、明和六年(一七六九)彦根に生まれた。京都に出て松村呉春に学んだ。長沢芦雪と共に江戸に出ようとしたが、名古屋に来て月樵だけが万松寺の住僧珍中を頼り、この地にとどまった。前津の山田宮常に兄事した。宮常が亡くなった後は、その屋敷に住み、残された妻と一緒になった。天保三年(一八三二)六十三歳で亡くなっている。江戸末期の名古屋を代表する画家である。