酒の肴にかばやき町―ビルの谷間の長屋
蒲焼町筋は現在錦通りとなっている
蒲焼町は本重町筋の南、御園町筋より大津町筋に至る九丁の東西道路の俗称で、正式の町号ではない。
蒲焼町の町名由来については、各種の説がある。
『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』は、次の説をあげている。
此蒲焼町の町名は、古しへ清須よりいまだ此地へ御遷城不非以前、此所に色廓有て、そが地名を香倍焼町と云けるよし。
或記曰、当所に遊女の始りは天文十九年(一五五〇)、信長公の御代、万松寺の南に青桜を許給ふとなん。
其号今に残りて斯世俗に云か。名府開けて後は必この町名に属したる所なしといへども、今は唯此ちまたの惣名になん呼ける。
名古屋に城が築かれる以前、天文十九年、織田信長が、香倍焼町と呼ばれていたこの地に、遊郭を開いた。碁盤割の町割が終わった後、香倍焼町から蒲焼町と呼ばれるようになった。蒲焼町という町名は碁盤割の中にはないが、この辺り一帯を総称して蒲焼町と呼ぶようになったというのが『金鱗九十九之塵』の説である。
色里に喧嘩はつきもの。香倍焼町時代の話である。
名古屋城の築城の手伝いに諸国の大名が駆り出された。城普請が非番になった日、黒田長政の家臣、保坂喜十郎と平岩親吉の家臣、平野三記之助とが、うちそろって香倍焼町の遊郭にあがり、酒を飲んでいた。そのうち口論が始まり、喜十郎が刀を抜き、三記之助を切ってしまった。このことが清須の城にも聞こえ、平岩親吉は激怒したが、喜十郎は逐電した後で、いかんともすることができなかった。
慶長十五年(一六一〇)三月十のことである。
『街巷事述考』は、町名由来として次の説をあげている。
万治年中(一六五八~一六六〇)の図には、扇風呂町とあり、又或説にかんばやき町とて、桜の皮を焼て、色々細工に用いる職人の住し所ともいふ。亦一名を梶河町と称すとぞ。これは梶河氏なる人の取建し町なる由をもいへり。然れども所の人の話に相伝ふ。爰は名古屋御城下の始の頃、御普請御手伝として、西国の諸大名衆滞留有し、その供人の大勢亦は人夫等あまたにして賑合へる折から、此所に茶店・煮売・酒肴などを商ふ店たち続きたるが、其後この町並と成しとぞ。今に町家の裏を掘れば貝がら多く出るよし。是茶店数多ありし一証成べしと也。其内蒲焼の商家多き故の名なるべしやと云云。
桜の皮を焼いていろいろな細工物を作る職人が住んでいたから「かんばやき」町と呼ばれるようになった。
大勢の人夫が名古屋城築城に駆り出された。それらの人夫を相手にする飲食店や茶店が多数建てられた。その中で蒲焼を売る店が多かったので蒲焼町という名前で呼ばれるようになったというのが『街巷事述考』の説である。
町名由来のうち、どの説が正しいかは不明だ。しかし蒲焼町に、風呂屋があり粋人が出入りする。遊郭があり、人々がそぞろ歩きをする。そしてぞめき客を相手とする飲食街ができあがる。そういう華やかな町筋にできあがった町である点では共通している。
昔の蒲焼町は、今の町名変更された錦三と全く同じだ。きらびやかなネオンのまたたく錦三には、飲食店・風俗店が軒を並べている。その街を多くの人が往来している。
錦三の華やかなビルの谷間の中に、ひっそりと昔ながらの長屋が残っている。華やかさに背をむけ、時の流れに背をむけ、自分の信ずる道を、ひたすら生きてきた人の住む家であろうか。