児子宮(ちごのみや)
児子八幡社(名古屋市北区志賀町1丁目65)
『名古屋市史』によりますと、児子宮はもともとは児の宮、あるいは児の御前社とよび錦神社の東、西志賀村にありました。
安永年間(一七七二~一七八〇)より、尾張藩主が何度も、この神社に参拝しました。修理費などを与えました。神社からは御札守などを差しあげていました。
明治七年に、現在の東志賀の地に移ってきました。神殿と拝殿は、もとの地より移したものですが、石鳥居は明治三十七年に建立したものです。
江戸時代には三月十四日に、神殿で神楽が演じられ、多くの人々が集まってきました。大正時代には、四月十四日より三十日まで、子供の「はやて」〔疫痢〕よけのまじないとして赤い丸をひたいに書く神事がありました。この時には、一日に二万人の人が参拝したといいます。
子供の守神様として、昔から多くの人々に敬われてきた神社です。
児子八幡社拝殿
江戸時代に、こんなことがありました。
仙吉が今夜もまた泣き出しました。お静は亭主の重三が目をさまさないように、仙吉をだいて外に出ました。大工の重三は朝早く仕事にでかけます。
いつぞや仙吉がひどく夜中に泣き出しました。重三は、仙吉をあやしたり、せんじた薬を飲ませたりしているうちに一晩中まんじりともせずに夜をあかしてしまいました。
あくる日、仕事に出た重三は、寝不足と疲れのために、とんでもないへまをやらかしてしまったのです。かんなで柱をけずりすぎて、一本の大事な柱をつかえなくしてしまいました。
それからは、仙吉が泣きだすとお静は外に出てあやすようにしています。
星が満天に出ています。月が中天に浮かび、志賀の町をてらしています。お静の住んでいる長屋の前には、犬山に通じる街道がありますが、こんな夜ふけに通っていく人はいません。
「子供の夜泣きは癇(かん)の虫によるものだといわれている。一度、虫封じの神様の児子宮(ちごのみや)に行ってごらんなさい。街道をほんの少し北に歩いていけばすぐわかりますよ」
仙吉の夜泣きの話を聞いた大家さんが、明くる日お静に言いました。
お静は、仙吉を背中におぶって児子宮に出かけました。二歳になったばかりの仙吉は、昨夜の夜泣きのためか、すやすやと心持ちよさそうに眠っています。
お静は一心になって祈りました。お静と同じように二十歳前後の女の人が何人もお参りをしています。きっと仙吉と同じように虫封じを祈りにきていることでしょう。その日から、お静は毎日、児子宮にお参りにきました。一週間もすると仙吉の癇の虫はすっかりおさまりました。
仙吉は、お静の愛情ですくすくと育っていきました。お静は、仙吉が大人になってからも、児子宮に連れてきて、「お前の癇の虫を直してくれた神様だよ」と言ってきかせました。
いつか、仙吉も父親のあとをついで、立派な大工になりました。妻との間に、子供ができると虫封じの神様、児子宮にすぐお参りに行きました。
「おっかさんに、こうしてつれられてきてお参りにきたんだな」と妻に語りました。
仙吉のように何代も何代も子供が生まれると虫封じのために児子宮にお参りにくる人がいました。
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