為朝塚
英雄の死は、誰しも信じたくはない。英雄は不死鳥だ。英雄の末期が悲惨であればあるほど、人々は英雄の生命が不滅であることを願う。平泉で討ち死にした義経は、実は生き残って蝦夷の地に渡ったという伝説が残っている。あるいは、義経は蒙古に渡りジンギスカンになったという奇想天外な説も出てくる。
真田幸村も、西郷隆盛もそうだ。彼らを死なせたくないという人々の願望が、彼らが落ちのび、生きているという伝説を生みだす。
若くして九州の地に勢力をはり、鎮西八郎(ちんぜいはちろう)と称せられた源為朝(みなもとのためとも)にも、同じような伝説が残っている。
為朝塚とされている尾頭塚(※編注:闇之森八幡社の方に伺ったところ為朝塚にあたるのは尾頭塚とのこと)
保元の乱に崇徳上皇方につき、敗れて伊豆大島に流され、伊豆諸島を略取した為朝は、工藤茂光の討伐軍と戦い、嘉応二年(一一七〇)に自刃した。
自刃したはずの為朝が伊豆大島を脱出し琉球の国に渡り、琉球王になったという小説が滝沢馬琴の『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』だ。
その小説の一節に、次のような個所がある。
伊豆大島を脱出した為朝は、崇徳上皇の眠っている四国の白峰山をめざす。明日は上皇の陵に参拝しようと讃岐の国の逢月の浦に船を停めていた時だ。為朝の船から少し離れた海上で、主従十余人ほどで碇をおろして、月見を楽しんでいる一行がいた。その船を蜘手の渦丸という盗賊の一味が襲いかかった。船中の主従はたちまち斬り立てられ危うくなった時、それと気づいた為朝は、船にかけつけ、賊の一味を追い散らす。船の主人と対面してみると、なんと熱田大宮司の藤原季範であった。季範は為朝の兄、義朝の舅にあたる。季範は、為朝に熱田の地に来ることを強く勧めた。為朝は、命を惜しんで迷惑をかけるつもりはないと言って誘いを断る。自分の代わりに子供の嶋君を季範に託す。
名古屋市中区正木4丁目にある尾頭塚. 元興寺(尾張元興寺跡)の近くにある伊豆大島で自刃した為朝が、古渡に住んでいた。そして、その塚があるという伝説の生じた源は案外『椿説弓張月』にあるかも知れない。馬琴の小説は、多くの人々に読まれた。『椿説弓張月』の場面は、浮世絵の中にも数多く取り上げられている。
『椿説弓張月』に描かれていて藤原季範との関係が、為朝の古渡生存説を生み出したのではないだろうか。
『那古野府城志』は、その間のことを次のように述べている。
古渡村に為朝塚と呼処あり。其他闇森等に為朝の故事をいふ不審。為朝は豆州大島にして自尽せり。如何なる故に当国にかかる伝ありやと。当国は源家に由縁あれば、そのかみ為朝は古渡村を知行せしにや。子孫又此国にありしやと覚え侍る。
俗に云古渡闇森は為朝の霊を崇祝と云。今は八幡と称せり。
不審とは言うものの、藤原季範との関係で、古渡を知行し、そして子孫もこの地にいると述べている。
為朝の子孫が、この地に多いのみならず、その家臣の子孫、この地に多く残ったという説もある。鬼頭ちかを『鬼頭一族の源流』には、次のように書かれている。
中川区牛立町にある願興寺と鎮西八郎為朝との関係、また中川区牛立町近辺に点在している地区に、鬼頭、大島、大矢、磯部の名字の家の多いこと、隣同士が同じ名字であり親戚でもあり、親兄弟でもあることも珍しくない。
元来、大島、大矢、磯部の名字の家系は鎮西八郎為朝の、一番信頼の置ける従者たちである。また古文書によると、鬼頭一族より分家した族となっている。
為朝塚の所在地を『那古野府城志』は、
元興寺裏畑にあり、八郎御曹司の墳此地にある事いぶかし。或義次父菩提の為に、爰に墳を築て追福をなせし処か。又云好事の者近世作る所也
織田信秀が古渡城を築城する際、尾頭村から現在地に移転したとされる尾頭山願興寺(中川区牛立町)道場法師が奈良元興寺の分院として建立したとされる元興寺(尾張元興寺跡). 鎮西八郎為朝の子義次により再興されたと、この地にあることいぶかしと述べ、好事の者作る所なりと、その信憑性まで疑問視されている為朝塚であるが、ひきもきらさず人々はこの塚に詣でた。
『張州年中行事抄』は、次のようにその賑わうさまを描いている。
宝暦の末の此より此塚に祈るに感応著く、年来因疾難病即時に平癒、危急絶命の症も卒に蘇る。其応挙て数ふべからず。府下の貴賤他境の遠客終日裳をつらね踵をついて群集し、金銀を擲ち花表・燈明・珍菓・洗米廟前に満ち、神意赫々として其益を蒙る者は報賽の拝謝絡繹す。国中近境其神霊威光を貴ぬ。
死してなお為朝は威光を放ち、神意は赫々としている。