玉を入れおく袋町―福生院
袋町通り. 写真左奥に名古屋駅前のミッドランドスクエアビルが見える
袋町の町名由来を『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』は、次のように記している。
当袋町の儀は、清須越にて清須本町小塚田所の内、袋の内と申所より引越来りし所、此節此地の伝馬町通りにも可相成土地に御目立是有し処、西の方に広井八幡の山あり。これにさしつかへ伝馬町通りには不相成。壱町北へ出て出来申候由云へり。且当町号の儀は、清須出地の由来を以、袋町と名付しとかや。
袋町は慶長十五年(一六一〇)の清須越の町である。清須本町の小塚田所の袋の内から移転してきたため、清須当時の地名を付けたのが、町名の由来である。本来なら伝馬町筋となるはずだったが、西方の泥江県神社の山が障害となり、一丁北に移された。
きしめん、守口漬と並んで、名古屋三大名物の一つといわれる、ういろうを売る店が万治二年(一六五八)、袋町に登場した。餅屋文蔵が開いた餅文である。陣元贇の直伝の製法で作り出された。ういろうはまたたく間に名古屋の名物となって広まっていった。
餅文は瑞穂区に移って行ったが、今も袋町に残る老舗の店がある。骨董商の美の伊だ。茶所といわれる名古屋だけに、町の旦那衆は、きそって珍しい高価な茶道具を美濃伊から買い求めたものだ。
ありとあらゆる種類の茶道具を取りそろえ、さりげなく客の目の前に出す。美の伊は、昔と変わらず今も上手の骨董を商う店である。
薬種商の京町、古着屋の杉の町と並んで、袋町は骨董商が軒を並べる骨董屋の町であった。
書画、陶器、それぞれ専門の店が何軒も店を構えていた。
戦争で袋町の様相は一変した。焼き尽くされた街で、作れば作っただけ直ぐに売れる、戦後の繊維不足をあてこみ、戦前には一軒もなかった繊維問屋が雨後の竹の子のように袋町に店を構え出した。タテ(南北通り)の長者町、ヨコ(東西)の袋町と活気のある商売が展開された。荷物を上げ、下ろしする自動車が店先に何台も並び、人の往来のはげしい、喧噪の町に変わってしまった。
昨今の繊維業界の不況で、心なしか袋町も静かな町になったようだ。
袋町お聖天と呼ばれ親しまれている福生院の境内
袋町といえば、何といっても福生院だ。福生院というより聖天様と言った方が通りがよいかも知れない。
『金鱗九十九之塵』にも、
此歓喜天は利生いちじるしきによりて、御名高くましまして、世の人寺号の福生院といふことは知る人も稀にして、唯此寺をお聖天さまとのみ呼り。
と記している。