常もにぎあふ広小路―柳薬師跡
『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』は、広小路を次のように記している。
此町東西長くして、西は長者町より東は久屋町筋に至り、地形広々たる故に、広小路と号く。南北の町は八筋に通じ、むかしは尋常の町にして、西の方は堀切筋と呼、又いせ町より東は、都て武家屋敷成し所に、万治三年庚子正月十四日、片端筋、伏見町の東角吉原助太夫屋敷より出火して、其日はしかも風烈く飛火八面に散乱して、名古屋過半一時に灰塵と成りぬ。是世に万治の大火と云、又これを左義長火事とも云伝ふ。就中其所は古俗にて、街衢の四ツ辻、或は御屋敷方にても、そが家々の門飾をもて、爆竹をなせし事とかや、されば此回禄以後は市中に於てどんどをなす事かたく御停止と成しとぞ。且夫より彼焼土の地を、町の巾広くなして、今の広小路を開きしとかや。将類焼に懸りし其町々の家数、凡二千二百四拾七宇とぞ聞えし。又火災の者へ御救ひ金として、家別一軒に付、金壱匁三分(但銀にて凡十貫目両替は六拾七匁二分七厘づつ也)と、桧材五本づつ、松材五本宛、国君より下し給ひしとなん。凡材木の惣数十万本とぞ、内五万桧材、同五万松材也。
広小路夜見世のにぎわい - 尾張名所図会(イメージ着色)
広小路は万治三年(一六六一)の大火の後に、火除地として設けられた通りだ。万治の大火は、左義長(正月の行事のどんど焼)火事とも呼ばれる。『金鱗九十九之塵』に記されているように、この火事によって二千二百四十七戸、侍屋敷は百二十軒、寺院三十が焼き払われてしまった。
大火の後、東は久屋町通から、西は長者町までの間に、幅約十五間(約二七メートル)の広小路通ができあがった。
江戸時代の名古屋が最も活気につつまれたのは、宗春が享保十六年(一七三〇)に七代藩主になってからだ。八代将軍吉宗の質素倹約の方針を無視し、宗春は遊郭を開き、歌舞伎狂言の上演を許可した。活気につつまれた名古屋で、特に賑わったのは広小路だ。朝日神明社、庚申堂、柳薬師などでは、夜開帳が開かれたり、あやつり芝居の小屋がかけられたりした。
見世物小屋の前では、大勢の人だかりができた。
享和二年(一八〇二)六月、名古屋に来た滝沢馬琴は『羇旅漫録』のなかで、広小路の印象を次のように記している。
夏の日納涼の地は広小路柳薬師前なり。数十軒出茶屋、見世物、芝居等ありて甚賑へり。柳の薬師より広小路の景色江戸両国薬研堀に髣髴たり。
明治時代になってからも、広小路はますます賑やかな通りとなった。
明治二十二年(一八九〇)東海道線が開通した。時の名古屋区長、吉田禄在の尽力によって、中山道に敷設されることになっていた鉄道が、東海道を通ることになり笹島駅ができた。広小路は長者町から延長され、駅に通ずることになった。
今も、昔も広小路は名古屋の中心の通りだ。