義次塚
鬼頭氏の祖先の由来を示す記述が『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』に載っている。
古しへ織田信秀の国司たりし頃かとよ。此所に鬼頭宗左衛門と云う者在住し、今も猶其末葉当村にありとぞ。且此鬼頭氏の祖の来由を尋るに、鎮西八郎為朝自殺のとき、妾既懐妊して八月に及べり。彼妾其難を遁れ、上方に趣んと欲る道すがら、尾張国古渡りの地に止り、爰にて一男子を産り。是則ち尾頭次郎義次と号せり。強レ●剛にして無法の人なり、百姓等是を嘆きて、皇都に奏聞す。帝謀を廻らし給ひ、義次を内裏へ召されて、紀州焼山に悪鬼あり。是を退治せよと勅諚有て、その鬼のために義次を失はんとの事なりしが、義次はそれを不知、誠に討手と思ひ勢力をはげみ安々と悪鬼を亡し、それが鬼の頭を取て、都に是を帝に奉る。夫より義次に鬼頭の姓をぞ賜はりけるとなり。
闇之森八幡社世界遺産に登録され、今ブームを呼んでいる熊野古道の中の最も高い山が八免山だ。江戸時代、この八免山は、焼山と称されていた、今でも険阻な登る人もまれな山であるが、江戸時代は、さぞかし人跡まれな秘境であったろう。そんな都から遠く離れた山であるだけに古くから鬼の伝説が残っている。
その鬼を退治するようにと命ぜられたのが為朝の次男の義次だ。義次は、為朝が配流先の伊豆大島で自殺した時、すでに懐妊していた妾が、難を逃れ、古渡の地で産んだ子だ。
成長をした義次は、手のつけられない無法者となった。
古渡の百姓たちは、義次に困り果てて、都に上り義次の処分を願い出た。帝は、義次に焼山の鬼を退治するように命じた。鬼によって、義次が殺されることを願ったからだ。しかし、案に相違して、義次は鬼を退治して都にもどってきた。
鬼の頭を取った義次の剛勇を賞して、帝は鬼頭の姓をお与えになられた。
『金鱗九十九之塵』には、帝が義次を鬼に殺させるために焼山に遣わした話になっているが、『俳諧古渡集』では、元興寺に義次が武勇がたてられるように祈願したそのために鬼を退治する手柄をたてることができた話になっている。
昔時奈良の元興寺を模し、営みし古跡とかや。其盛んなりし時、此郷の辺りに、尾頭次郎源義次といへる武将有、多田満仲の苗裔たりしかども、故ありてひそかに埋木と成て住り。当時を帰崇し、一度武運を開ん事を祈られける。時に、土御門院の御宇にあたって、南紀に悪鬼出て、人民をそこなふ事有。義次其名雲上に聞え、かしこくも詔をうけたまはり、彼悪鬼を退治して、其頭を捧く。叡感斜ならず、褒美として姓号を下し賜ふ。鬼頭氏ここに始り。是則当山の大檀那也と。
『俳諧古渡集』に書かれている義次は、世間から捨てられて顧みられない埋木である。なんとか武勇をたて世間に出たいと元興寺に祈願する誠実な人物像が浮かんでくる。『金鱗九十九之塵』に描かれている義次の人物像とは対照的だ。
義次塚は『那古野府城志』には、
今失其所。或云泰雲寺境内。
と書かれている。
泰雲寺は、もともとは立田新田小茂井村にあった。貞享三年、古渡村に移ってきた。その頃、破壊していた堂宇を志水甲斐守の母の昌桂院が修理をなさったので、改号して昌桂山泰雲寺と称されるようになった。
為朝、義次、景義を祀る尾頭神社. 闇之森八幡社の境内社
義次を祭神としているのが尾頭神社だ。
『闇之森八幡社由緒書』には、尾頭神社のことを次のように記している。
鎮西八郎為朝の子、尾頭次郎義次の亡き後、(一二六〇年卒)以降に縁ある人々が、義次の功績を思い、御霊を慰める祠を造りました。
本社の社跡は、八幡社境内の鎧塚を埋めた、小丘の辺りに祀られていたと伝えられています。
文政年間(一八一八~三〇)に、この小丘より神器が発掘されましたが、義次の祠と推定され、再び現況の位置に戻されました。
その後、後世に義次の功績が忘れられる事を悲しみ、明治十六年(一八九三)に官許を得て、社殿をこの丘地に再建し、尾頭神社と称して、同年十月十二日に遷座の式を行い、為朝、景義の神霊を合わせて祀りました。
今では、鬼頭氏の氏神として県内はもとより、全国から縁ある人々の参拝があります。