おからねこ
社伝によると、祭神は奈良の三輪にある大神神社に祀られている大直禰子命であるという。「おからねこ」と呼ばれた由来について『尾張名陽図会』には、
むかしおからねこといふ所は鏡の御堂の事なり。鏡の御堂とて至つて古く荒れはてし堂あり。その中央には本尊も無くして、小さき三方の上にこまいぬの頭一つを乗せたり。世におこまいぬをおからねこといふ異名をつけたりとぞ。そののち年月を経るにしたがひてその堂も跡無し。こまいぬの頭をも今はいづちへ行きたらんもしらず。しかるにその傍に大なる古榎の大樹ありて、枯れくちはててその根ばかりのこれるをおからねとよび、またはおからねことも言ひたり。
と記している。
大直禰子神社理由のひとつは、このお堂には御神体がなく三宝の上に狛犬の頭ひとつが乗せてあった。里人はこれをお唐犬といっていた。それがつづまって「おからねこ」と異名をつけるようになったという説である。
もうひとつの説は、そののち年月が経つにつれてお堂が跡かたもなくなり、狛犬の頭もどこにいったかわからなくなってしまった。お堂のかたわらに榎の大きな樹があったが、それが枯れはてて、根っ子だけが残っていたのを「お空根子(からねこ)」と呼ぶようになったという説である。
丸田町交差点の南西角近くに「東 天道 八事みち 南 さん王 すみよし あつた道 西 矢場地蔵 おからねこ道 北 法花寺町 大曽根道 」と記された道標が残っている。
「おからねこ」が山王社、住吉神社、熱田の社、矢場地蔵などと並んで、人々の熱い信仰を集めていたことを表している。
大直禰子神社の立札には、「この神社は猫を祀った神社ではない」ということわり書きが記されている。「おからねこ」という名前から、ここは猫の神様だと思って、いなくなった猫が帰ってくるのを祈る人が訪れるようになった。またときには神社の境内にわざと子猫を捨てにくる人もあって、神社の取持役を困らせたという。そのようなことが起らないよう願って、こうした断り書きを記したのであろうか。
大直禰子神社の由来と「この神社は猫を祀った神社ではない」ということわり書きが記された立札今年八十五歳になられる鳴物の伊和家流四代目小米師こと坂田喜代さんは、大正のころ「おからねこ」でよく遊んだとおっしゃっていた。
「おからねこは子どものはしかや疱瘡(天然痘)によく効く神様として信仰を集めていて、はしかや疱瘡にかかった子どもたちが親に連れられて、よくお参りにきていました。治ったときの神様送りには桟俵の上にオカラを乗せて、そこに御幣を立ててお供えをしました。おからねこからオカラを連想してお供えしたのでしょうか」
「おからねこ」については、そのことばから連想してさまざまなことが言われている。ところが、実際に「おからねこ」を具体的に記した文章がある。
石橋庵真酔の『作物志』の中の「異獣」の項に、
城南の前津、矢場の辺に、一物の獣あり。大きさ牛馬を束ねたるが如し。背に数株の草木を生ず。嘗ていずれの時代よりか、此所に蟠て寸歩も動かず、一声も吼ず、風雨を避けず、寒暑を恐れず、諸願これに向て祈念するに、甚だいちじるし。然れども人、其名を知らず、形貌自然と猫に似たる故に、俚俗都て御空猫と称す。
大きさは牛や馬を束ねたぐらいである。背中に草や木が生えている。ずっと以前からこの場所にいて少しも動かない。一声も吠えない。風や雨も平気だ。寒さ暑さも関係なくじっとしている。しかしながら人々はその名前を知らない。形が猫に似ているので土地の人は皆「おからねこ」と呼んだ。人々が「おからねこ」にお祈りをすると願いが叶えられた。だからこそ丸田町の道標にあるように人々がこぞって参詣したのであろう。
今は地下鉄上前津駅のそばに小さな神社としてひっそりと立っており、氏子も五十戸しかない。
江戸時代の昔のように「おからねこ」の霊威で人々の集まる神社にならないだろうか。
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