おから猫
万松寺の一本西の筋がオタマヤ小路、さらに一本西の筋が御深井小路。オタマヤ小路は、藩祖義直の夫人、高原院の廟所が万松寺にあるところから付けられた俗名だ。御深井小路は、高原院の守護仏であった御深井観音が万松寺に祀ってあるところから付けられた俗名だ。『裏門前町誌』は御深井観音について
御深井観音とは明の名工珍班氏の謹製して木彫金箔置したる霊験顕著の御尊体である。徳川春姫様の守護仏として大奥藩中帰依厚く城北御深井の里にて祭られ居たので御深井観音といふ。のちに春姫様の菩提所の万松寺に奉遷安産の守護仏として信者多し。毎年(旧七月九日夜)九万九千日の功徳のため開扉と大施餓供養がある。夜を明して善男善女が参拝焼香をするのである
と記している。
春日神社
高原院に関連して付けられた隠れ里という俗名の地もある。春日神社の裏の地だ。隠れ里について『金鱗九十九之塵』は次のように述べている。
むかしより此地に住居の民屋七八軒あり。こは士農工商にもあらずして、また村民が支配をも受ず有し故に、世こぞって是をかくれ里、または天下領と称せり。今将万松寺支配の者に呼べりとぞ。是等が家祖を尋るに、源敬様の御簾中高源院様、安芸の国より御入輿の御とき、御輿を舁奉りて当国へ来りし輩也。そののち高源院様御逝去被遊て、御葬送の折からも、此面々御輿をかき奉て、万松寺へ入御あらせられ、夫より此所に居住す云云。然に年ニ歴を経て、去ル文政の頃、万松寺高源院様の御魂屋御修造のとき、則御魂屋より本堂へ仮に遷しまゐらせし時も、御修理出来してまた元の如く御魂屋へ入奉る時も、古例にまかせこのかくれ里の者どもを召出され、御輿を舁たてまつりしとなり。
時うつり昭和の御代になってからは、粋な黒塀、見越しの松の中で、ひっそりと愛する人の来るのを待つ女性が隠れ住んでいたという。
上前津は高台の地にある。この高台から鶴舞方面にむけて、いくつもの坂があった。春日町の東西の町筋を縄屋横町と呼んでいた。その東端にあるのが幽霊坂。縄屋横町の坂の下に大屋又六という手習師匠の家があった。明治二十七、八年頃から、この家に幽霊が現れるという評判がたった。誰かいたずら者が浴衣を塀の上の木に吊したのを夜中に見た人が幽霊が出たと騒いで、このような俗名が付いた。幽霊坂の南にあるのが、うつぎ木の木から付けられた宇津木坂。北にあるのが、月を居(ゐ)て見たり、立待して見るのでゐたち坂。その北が寝ないで見るのでねずみ坂。その北は大きな坂なので大坂と言った。上前津にある大直禰子神社は俗称おから猫。『尾張名陽図会』には、次のように記している。
上前津にある大直禰子神社
むかしおからねこといふ所は鏡の御堂の事なり。市橋如蘭翁の随筆の中に、相伝ふ。鏡の御堂とて至って古く荒れはてし堂あり。その中央には本尊も無くして、小さき三方の上にこまいぬの頭一つを乗せたり。世におこまいぬをおからねこといふ異名をつけたりとぞ。その後年月を経るにしたがひてその堂も跡なし。こまいぬの頭をも今はいづちへ行きたらんもしらず。しかるにその傍に大なる古榎の大樹ありて、枯れくちはててその根ばかりのこれるをおからねことよび、またはおからねことも言ひたり。
石橋真酔は『作物誌』の中で、このおから猫を擬文化し、背中に草木が生え、牛や馬の大きさで、雨が降っても、風が吹いても動かなかったので人々の崇拝をうけたと記している。
西大須の猫飛び横町から上前津のおから猫まで大須に伝わる俗名の地をたどってきた。紹介してない俗名も、まだ数多く残っている。俗名で数多く呼ばれているのは、それだけ大須の地が人々から親しまれ、愛されているからだ。
沢井鈴一さんによる連載「俗名でたどる名古屋の町」は今回で終了です。 | ||