巻の森
伊勢山町の神明社奥村徳義の『松涛棹筆』に「古渡東本願寺辺之古覧」と題した絵図が載っている。享和年間(一八〇一~一八〇四)の御坊とその周辺を描いたものだ。御坊の南側には、樹々が描かれ、「おいせの森」と記されている。
東御坊の北側は、下茶屋町だ。この町には、元禄時代から、すでに茶屋や旅館が立ち並んでいた。享保年間(一七一六~一七三六)ともなると安女郎屋も何軒もできて、名古屋南部の一大歓楽地となった。下茶屋町という町名も、この町に茶屋が何軒もあったからだ。江戸時代初期の尾張藩きっての豪商、茶屋新四郎の屋敷がある京町筋にも、彼の名前にちなんで茶屋町と呼ばれている町がある。北と南に茶屋町があるのは、まぎらわしいというので、東別院の北にある町は明治四年に下茶屋町と改名した。
遊興の町、茶屋町がさびれたのは、大須に遊郭ができてからだ。茶屋や旅館は姿を消して、明治の末期には、すっかりかつての面影はなくなってしまった。
花街として栄えた下茶屋町がさびれると、東別院の南側、一面に田畑のつづく伊勢山の町に住宅が建ち並ぶようになった。住宅といっても一軒建ての立派なものではない。大地主の立派な屋敷の周囲に、マッチ箱のような安普請の長屋が何軒も地主の家を囲むようにして建ち始めた。路地は狭く、ごみごみとした町であった。
神明社境内
伊勢山町と名づけられたのは、明治十一年のことだ。北は下茶屋、東は東雲町、西は古渡町に接していた。明治時代の伊勢山は田園地帯、大正から昭和にかけての伊勢山は長屋の建ち並ぶ庶民の町であった。
江戸時代の伊勢山は、奥村徳義の『松涛棹筆』に描かれているように鬱蒼とした樹木の茂る森林地帯であった。
古渡の中央部にある、この地はなだらかな丘陵地帯で、大塚山、二子山、茶臼山、お伊勢山など七つの小山があった。
お伊勢山は巻の森とも呼ばれていた。
いつの頃のことか、伊勢神宮の秘蔵の巻物が流出して、尾張の地を転々とし、お伊勢山の森の中にある小さな祠に祀られることになった。お伊勢山のことを、別名巻の森と呼ぶのは、伊勢神宮の巻物が祀られているからだ。
巻の森の小さな祠が建つ地に、後に一社が建立され、現在の神明社となる。神明社は伊勢神宮の神霊を奉祀した神社だ。祭神は天照大神である。
神明社は、伊勢神宮の遥祭所で、ここで手をあわせて祈れば、たちまちに伊勢神宮の神に意が通じ、願いごとがかなうという。江戸時代の伊勢詣では、すさまじいものがあった。生涯に一度は伊勢神宮に参拝したいというのが、江戸の人々の願いであった。名古屋の人にとって、伊勢に出かけなくとも、伊勢山には伊勢神宮の出張所ともいうべき神社がある。多くの参詣者を集め、八月十五日に神梁、十六日には湯立の行事があった。
神明社は、伊勢山町の氏神として、町内の人々の篤い信仰を集めている。