直礼の森
日蓮宗 休玄寺ビルが林立している金山駅の北口に、日蓮宗の二軒の寺が、ビルの谷間の中に、ひっそりと建っている。国道十九号に接し、南側に建つのが休玄寺、北側に建つのが霊山寺だ。
金山は、現在ではビルの林立する繁華街であるが、昔は樹々の生い茂る森が周辺を一面におおっていた。
白山神社の辺は、榊の森、霊山寺の辺は直礼(会)の森と呼ばれていた。そして、さらに南に行けば盗人の森があった。『小治田の真清水』には、盗賊が森の中で酒盛りをしている図が載っている。
日蓮宗 霊山寺日蓮宗 霊山寺境内直礼の森は、大日の森、あるいは如来の森とも呼ばれた。『張州志略』は「大日の森里老曰く、往昔伽藍の廃墟なり。今、老松一株存すのみ」と記している。伽藍の中に鎮座していた大日如来、それに由来して、大日の森、あるいは如来の森と呼んだのであろう。
『尾張名陽図会』には「むかしは別に大森なりし。今は此寺の内に入て、知る人もまれなり。所は此寺鎮守の宮古木多し。則此所と云ふ。延享四年に此處切うち入る」と記されている。
この文により、延享四年(一七四七)に、直礼の森は切り開かれ、霊山寺の境内地になったことがわかる。
霊山寺の東南に、鬼子母神堂があった。その地が直礼の森があった所だという。
直礼の森とは、いったいどういう意味で、そのように呼ばれたのであろうか。『広辞苑』で、直会を引くと次のようにでている。
ナオリアイの約。斎を直って平常にかえる意。神事が終って後、神酒・神饌をおろしていただく酒宴。また、そのおろした神酒。
熱田の宮での神事が終わった後、この森で酒宴を開いた、その由来で直礼(会)の森と呼ばれたのであろう。
直会の森は、熱田の宮の神事のおさがりの神酒をいただく所。その南に広がる盗人の森は、盗賊が宴会をするところ。同じ森でも、神罰をうける森と神の加護をうける森とがあった。
『俳諧古渡集』に、「なをらいの森とはかりそ冬木立」という侃口の詠んだ句が載っている。冬木立が凛として、大空に真っすぐ立っている。直礼の森にふさわしい姿だの意だ。
現在では、まっすぐ空に伸びているのは、ビルだけである。
霊山寺の山号は見仏山という。もともと、この寺は上畠橋堀詰町の裏にあった。「おちやちの方」と呼ぶ老女が正保二年(一六四五)に建立した寺だ。寛文六年(一六六六)、春日井郡の土器野に、藩より替地を与えられ、移転を命ぜられた。この時、檀家総代の米倉市太夫が、古渡の控屋敷を寄付して、現在地に移ってきた。
京都妙満寺の末寺で、江戸時代には境内地は五百四十坪であった。明治二十四年の大震災では、全宇倒潰した。再建をした寺も太平洋戦争により灰塵に帰してしまった。