紫川
明治三十五年博文館より刊行された「名古屋と伊勢」という書物のなかに、中原指月の「名古屋の風景」という文章がある。当時の名古屋の名勝を紹介した文章だ。その冒頭は、次のように始まっている。
むらさき川へ身を投げて、身は身で沈む小袖は小袖で浮いてゆくと古くから唄はれた其跡は、横三ッ蔵伝光院の境内に紫式部の墓なりと言ひ伝へられた其墓の時を流れて名を得たと言ふ紫川の跡は、野とも成らず山とも成らず、いよいよ栄ゆる栄町から二丁程南に当った低地に一条の泥水悪水をチョロチョロと漂はせて居るが、流石にゆかしい名丈に能く見れば、紫色に濁って居るとは中京童の悪口、邪気の無い所が愛嬌であろう。
伝光院本堂脇にある紫式部の墓といわれる五輪塔名古屋案内の冒頭に紫川が紹介されているのは、紫川が名古屋を代表する川であり、名古屋人に親しまれている証拠だ。しかし、その紫川は名前のような澄んだ清らかな水が流れる川ではない。「泥水悪水をチョロチョロと漂はせて居る」川だ。明治の名古屋の人々の生活の中にあった川、それが紫川であったろう。
紫川の水源は、大久保見町の伝光院の傍だ。伝説では伝光院の五輪塔が紫式部の墓であるとされている。紫式部のゆかりで、川の名前も紫川だといううがった説がでてくるゆえんだ。
川は広小路と併行するように流れ、伏見町のあたりで南に曲がり、今の若宮大通りが走っているところを西に流れ堀川にそそぐ。
若宮大通りが通ることにより、紫川は埋めたてられてしまった。その工事のさいに江戸時代の護岸工事のすばらしさを証明する人頭大の石を組みたてた跡が見つけだされた。
伏見通りから堀川に向けて、若宮大通りを歩いてゆく。
若宮大通りに向けて建っている西大須の家がかすかに傾斜の上に建っていることがわかる。かつては紫川の護岸から西大須に向けて、崖になっていたのだ。その崖の上にあった密集地帯が旭廊だ。
名東区名東本町に移転した現在の伝光院泉鏡花の小説に『紅雪録』という名古屋を題材とした作品がある。その小説の中に「紫川にはまる」という表現がでてくる。紫川にはまるとは、旭廊に深いなじみの女性ができた意だ。
旭廊は、ここでは一種の隠語として使われている。旭廊とあけすけに呼ばずに紫川と言うところに洒落気と粋がこめられている。廓通いが遊び心ならば、その廓を紫川と呼ぶのも遊び心だ。俗名は、遊び心によって生まれてくるものだ。『紅雪録』によって、当時の人々が旭廊のことを紫川と俗名によって呼んでいたことがわかる。
時移り、紫川の名も忘れ去られ、旭廊のことも忘れ去られてしまった。まして「紫川へ身を投げて」の童歌を知っている人はいなくなってしまった。
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