沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」
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2012年3月30日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第7講 下飯田の昔 第3回「六所社」
今でこそ住宅地となっている下飯田の地であるが、昔はのどかな田園地帯であった。春にはあげひばりが舞い飛び、秋には水鶏の鳴き声が聞こえてきた。下飯田の村の中を御用水、黒川、大幸川、前の川が流れていた。しかし、戦後、御用水は遊歩道となり...
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2012年3月23日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第7講 下飯田の昔 第2回「成福寺」
御用水跡街園の中を流れる堀川に瑠璃光橋が架かっている。長さは十三・五メートルの短い橋であるが、幅は十七メートルもある。御用水跡街園の中では、夫婦橋についで大きな橋だ。今では車が何台も行き交うなんでもない橋になっているが、かつては、...
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2012年3月16日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第7講 下飯田の昔 第1回「川上絹布跡」
「ビョウキ スグキテホシイ」鏡台の前に座り、貞奴は福沢桃介からの電報をじっと見つめていた。名古屋に腰をすえて事業を始めた桃介は、これからの人生を共に歩むのは貞奴しかないと考え、舞台の上に立っている貞奴に、無理を承知で電報をうったの...
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2012年3月9日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第6講 稲置街道から御成道へ 第8回「刎ねた首まつる─御首社」
この地に伝わる山伏塚について、『尾張名陽図会』は、次のように伝えている。 むかしこの辺山野にて有りし時より言ひ伝ふ。今、長久寺境内に入りしといへど、定かならず。ある言ふ、長壁筋の東の屋敷の庭に大いなる松有りしが、土中より至っ...
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2012年3月2日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第6講 稲置街道から御成道へ 第7回「火の用心をする不動尊─豪潮寺」
一代の傑僧、豪潮の終焉の地が豪潮寺である。 豪潮寛海(一七四九~一八三五)は、肥後国、玉名郡山下村の生まれ。一食一菜の厳しい修行をつんだ天台宗の僧で、柳原長栄寺を開山した。文化十四年(一八一七)の春には、知多郡岩屋寺の住職も...
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2012年2月24日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第6講 稲置街道から御成道へ 第6回「天狗ばやしのひびく―片山神社」
尾張名陽図会』は、片山神社を次のように記している。 これは蔵王権現なり。延喜内にして『本国帳』に従三位片山神社とあり。 ある記に、祭神安閑天皇なる由。蔵王権現は往古より在せりとあり。また言ふ、和州芳野山蔵王権現と御同体にて...
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2012年2月17日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第6講 稲置街道から御成道へ 第5回「火あぶりになる火つけ坊主―久国寺」
久国寺は慶長年間(一五九六~一六一五)に、徳川家康の守護仏を、三河の法蔵寺からもらいうけ、それを本尊として建立された寺である。寛文三年(一六六三)に、現在の地に移った。徳川家との関係から、この寺が尾張藩主の葬儀のときには棺休みの場...
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2012年2月10日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第6講 稲置街道から御成道へ 第4回「母恋し―尼ケ坂・坊ケ坂」
片山神社から御成道へ下る坂道を坊ケ坂、片山神社から西北へのびる坂を尼ケ坂という。 『感興漫筆』の中に、次のような一節がある。 むかしより坊が坂、あまが坂といふ処、変化の物出しよし、世の人言ひふらししが、今は都となり金城...
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2012年2月3日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第6講 稲置街道から御成道へ 第3回「清正の手形石―蓮池地蔵」
江戸時代、志水町の北に蓮の花が咲く大きな池があった。寛文年間(一六六一~一六七二)に埋め立てられ田圃となった。蓮池新田と呼ばれていた。また道路の傍には、農家が何軒か建って、その地は池町とよばれた。通りから、一目で城そびえたつ名古屋...
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2012年1月27日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第6講 稲置街道から御成道へ 第2回「八人の王子を祭る―八王子神社」
高力猿猴庵の『尾張年中行事絵抄』に、八王子社の祭礼の図が描かれている。 神前の御手洗池の中に高い台が建てられている。台の上には、山が作られ提灯が数多くかざられている。まばゆいほどの灯りだ。提灯には銀杏の葉がつけられている。八...