沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」
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2011年11月11日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第5講 干支の神様『羊神社』とその界隈 第1回「飛びこみ地蔵」
今から百二十年ほど昔の明治の中頃のはなしです。 今でこそ人家がぎっしりと並んでいますが、明治の時代の志賀の里は、のんびりとした田舎の村でした。村の中には、小さな川がいくつも流れています。夏ともなれば蛍がとびかう、それはのどかなと...
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2011年11月4日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第4講 名古屋の忠臣蔵 第6回「早水藤左衛門の弓の師─筒井町」
浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷におよび切腹を命ぜられたことを赤穂の大石内蔵助に最初に注進したのは早水藤左衛門満尭であった。 萱野三平と共に駕籠を乗りつぎ、一五五里(約六百二十キロ)を四日間で走破した。普通は十七日間かかる行程を、わ...
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2011年10月28日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第4講 名古屋の忠臣蔵 第5回「『鸚鵡籠中記』の忠臣蔵―主税町」
元禄十六年(一七〇三)二月四日、無事、吉良上野介の首をはね、主君の仇を報じた大石内蔵助は、細川越中守の屋敷で切腹をした。行年四十五才である。 『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』の作者、朝日文左衛門は、この年、三十才、御畳奉行で...
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2011年10月21日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第4講 名古屋の忠臣蔵 第4回「近松勘六・奥田貞右衛門―本龍寺」
近松茂矩の『昔咄』の中に次のような記述がある。 内匠頭殿に予が麁流の者多く居たりし。大変の時、近松勘六・弟奥田定右衛門兄弟は忠義全ふして死せり。其外近松貞六・同新五などは、さんざん臆病をかまへて逃走り、氏族の面をけがしぬ。剰...
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2011年10月14日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第4講 名古屋の忠臣蔵 第3回「源五右衛門をとりまく人―乾徳寺」
忠臣蔵の数々の名場面のうちの一つに、片岡源五右衛門が、田村右京大夫邸で浅野内匠頭と今生の別れをつげる場面がある。 テレビや映画では、桜の花がしきりに散る中を、内匠頭が廊下を通りすぎてゆく。よびとめられて庭を見ると桜の木の下に片岡...
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2011年10月7日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第4講 名古屋の忠臣蔵 第2回「片岡源五右衛門名古屋の別れ―高岳院」
高岳院という寺の名前は、家康の八男、仙千代の法号に由来している。『那古野府城志』によれば、慶長五年(一六〇〇)三月七日に亡くなった仙千代を甲府の教安寺に葬り、高岳院という院号をつけたと記してある。 『金鱗九十九之塵(こんりんつく...
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2011年9月30日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第4講 名古屋の忠臣蔵 第1回「仮名手本忠臣蔵」
赤穂浪士の討ち入りが圧倒的な人気で受け入れられたのは、竹田出雲、三好松洛、並木千柳によって作られた浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が寛延元年(一七四八)竹本座で上演されてからである。 『天保会記』の中に、忠臣蔵について論じた文がある。 ...
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2011年9月23日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第3講 七墓巡礼歌のみち 第17回「ひさやをつけてそ人した久屋町―金毘羅宮」
久屋町の町名由来を『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』は、次のように記している。 慶長年中清須の府にて何と云町より引越、当地へ来りしや未詳。其後寛永の頃君主敬公此町御通り被遊候節、町名は何と云ぞと御尋に付、干物町と申由...
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2011年9月16日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第3講 七墓巡礼歌のみち 第16回「こよひお前に大津町―大津橋」
京町より杉の町迄を云。むかし近江国大津の人、清須に来住し故の名なり。当地に移とも旧号を呼し也。 と『尾張名陽図会』は、大津町の町名由来を記している。 織田信長の居城する清須に、四郎左衛門という人が大津からはるばるとやってくる。...
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2011年9月9日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第3講 七墓巡礼歌のみち 第15回「いつはりいはぬ本町―本町公園」
東西の中心の道路が広小路ならば、南北の中心道路は本町通であった。名古屋の街と熱田の宿とをつなぐ道路で、この道を多くの人が往来した。 戦前には、服部時計店の時計が通りにそびえ、しゃれた街路灯が、通りを照らしていた。名古屋で最初に舗...