川上絹布跡
「ビョウキ スグキテホシイ」鏡台の前に座り、貞奴は福沢桃介からの電報をじっと見つめていた。名古屋に腰をすえて事業を始めた桃介は、これからの人生を共に歩むのは貞奴しかないと考え、舞台の上に立っている貞奴に、無理を承知で電報をうったのだ。
明治四十四年、夫の川上音二郎が亡くなった後も、貞奴は一座をきりもりし、全国巡業を続けていた。貞奴の人気は高く、どの地方の劇場にも彼女を見に大勢の客がおし寄せた。
貞奴は、電報を手にして、舞台を放棄し、すぐに名古屋の桃介のもとに走った。多くの人に愛される女優として生きるよりも、初恋の人、桃介と共に人生を歩いていこうと決心したのであった。
大正七年、二人は二葉町に住まいをかまえた。貞奴は、東大曽根の六郷村(現在の上飯田)に川上絹布株式会社を設立した。十五歳の時の出会いから三十年経って、始めてつかんだ貞奴の幸福であった。
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