火あぶりになる火つけ坊主―久国寺
久国寺は慶長年間(一五九六~一六一五)に、徳川家康の守護仏を、三河の法蔵寺からもらいうけ、それを本尊として建立された寺である。寛文三年(一六六三)に、現在の地に移った。徳川家との関係から、この寺が尾張藩主の葬儀のときには棺休みの場所となった。
江戸時代、二度の火事にみまわれた。
天明三年(一七八三)一〇月二八日の火事の様子を『猿猴庵日記』は、次のように記している。
二八日朝五つ比、杉村久国寺火事、早や鐘の音遠方へちかく聞ゆる。小林辺にては久屋せいがんじの鐘かと思ひ、広井にては山のやくしかとうたがふ。此半鐘は世に名高き名鐘の由。此弟子坊主、或人に銭を借りて遣い込み、急にかへしがたきよし、断りを申せども、貸し主聞不入、左様ならば寺の道具にても請取べしといふ。弟子がてんせず、もし師匠へ知れ候時、いたしかたなしと断り申候処、直々聞分けず、左様ならば火をつけてやけたるぶんに云ひなして、諸色を盗みてなりともかへせと申すゆへ、火を付けし由説あり。
借金の取りたての厳しさは昔も、今も変わりはないようだ。金を借りたが返すあてのない弟子坊主に、寺の道具を持ち出して返せと催促をする貸主。師匠に知れたら困ると断る弟子坊主に火をつけて、焼けたことにして盗み出せと責めたてる。窮してとうとう付け火をしてしまう弟子坊主。現在でも新聞の三面記事に載っているような事件だ。
昔の判決はすばやい。一二月の二五日には弟子坊主は火あぶりになっている。火をつけた弟子坊主が、もえたぎる火であぶり殺されるのも、なんとも皮肉なものだ。
久国寺の境内には、享保・宝暦期(一七一六~一七九三)の名古屋俳壇の雄、白梵庵馬州の供養塔がある。
馬州は、犬山の城に勤める藩士であった。ある時、妻と子が木曽川の辺で遊んでいた。子供が、ひょっとしたはずみで川にはまってしまった。母親があわてて川に入り、子供を助けようとした。あいにく川水は深く、二人とも溺れ死んでしまった。
馬州は、そのことがあって武士をやめ、法体となって尼ケ坂にそまつな小屋を建て俳句三昧の生活を送ってくらした。供養塔は、馬州の門人の太一庵快台や雨橘が師をしのんで建立したものである。
膝少し躙れば月のおもてか那
という快台の句碑が境内に建てられている。
碑の横面には、
まつ雪のさたか尾越の鐘の声
という雨橘の句が刻まれている。
地図
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