成福寺
御用水跡街園の中を流れる堀川に瑠璃光橋が架かっている。長さは十三・五メートルの短い橋であるが、幅は十七メートルもある。御用水跡街園の中では、夫婦橋についで大きな橋だ。今では車が何台も行き交うなんでもない橋になっているが、かつては、瑠璃光町と辻町とをつなぐ大事な橋であったことが、橋幅によっても知ることができる。橋は異質な世界をつなぐものだ。辻町の人が瑠璃光橋を渡り、紡績工場の建ち並ぶ下飯田の町をながめた時には、その想いを強く感じたであろう。
瑠璃光橋の名前の由来は、瑠璃光町にある成福寺の瑠璃光薬師如来による。瑠璃光薬師如来は、三河の国、鳳来寺で利修仙人が刻んだものと伝えられている。どんな病気にも霊験があるとして古くから「おやくつさま」と呼ばれて崇められている。
成福寺は熱田にある法持寺の末寺として、月峰慶呑和尚が開山した。天保四年(一八三三)の大火で炎上し、記録が焼失して、それ以前のことは不明である。
成福寺の境内に、無数の無縁仏の墓が林立している。その中に地蔵尊が立っている。かつて成福寺の南に「いぞの山」と呼ばれた墓地があった。その墓地を守るかのように見下ろしている小山があった。小山は地蔵山と呼ばれていた。地蔵山の頂上に立っていたのが、今、境内の無縁仏の墓に囲まれるようにして立っている地蔵尊である。
成福寺の前を流れる前の川には、六所社の東隣に小水車小屋があった。姥の橋の近くを流れる大幸川には、大型の水車が掛けられ大車屋と呼ばれていた。水車小屋の近くには、神明社の森があった。森の前には石の塔が建っている。法塔様とよばれていた。法塔寺は、移されて今、成福寺の境内に建っている。
地図
より大きな地図で 沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」 を表示