沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」
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2012年10月26日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第11講 柳原から土居下 第2回「たなばたの森──多奈波太神社」
たなばたの森さへ川の隔てあり 多奈波太神社で詠んだ白梵庵馬州の句である。この句に詠まれた多奈波太神社は、延喜式神名帳に載っている一千年以上の社歴を持つ神社である。多奈波太神社は樹木が鬱蒼と茂っていたので、七夕の森とも呼ばれた...
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2012年10月19日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第11講 柳原から土居下 第1回「豪力の和尚が持ち帰った門扉──西来寺」
西来寺の庭に立って、外をながめる。山門の上部の透しの扉を通して、外の通りを見ることができる。山門を出て、外から寺の中を見ても、門扉で、中を見ることができない。 他の寺院の門扉と異なり、この寺の門扉は武家門扉である。扉の上の部...
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2012年10月12日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第10講 下街道大曽根界隈 第9回「油屋『熊野屋』」
赤塚町にある享保十年(一七二五)創業の油屋「熊野屋」 赤塚の町名由来を『尾張名陽図会』は、次のように記している。 むかし弘法大師、熱田宮に籠り給ひ、夏百日が間、五の日毎に龍泉寺の観世音に詣で、余の日にはこの大曽根の地に...
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2012年10月5日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第10講 下街道大曽根界隈 第8回「赤塚神明社」
神社の境内に佇ずむだけで、その里の歴史を感ずることができる。その里ばかりではなく、過去の日本が辿ってきた道に、自然と思いをはせる場合もある。赤塚神明社は、そんな神社の一つだ。 国道十九号に面して、楠公湊川神社の石碑が立ってい...
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2012年9月28日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第10講 下街道大曽根界隈 第7回「瑞忍寺」
瑞忍寺創建の由来について『尾張名陽図会』は次のように記している。 元和年中(一六一五~一六二三)、当所に源左衛門といふ百姓の後家が、居みし屋敷の畠にて石仏を掘り出しけるが、古くなりて面体も分らず。小仏なれば大黒と思ひ安置す。...
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2012年9月21日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第10講 下街道大曽根界隈 第6回「了義院」
『尾張名陽図会』は、了義院を次のように説明している。 此地元は冷谷山成就院とて不動尊を本尊とせし真言宗の寺なりしが、いつしか荒廃してありしを安永年中峯上人といふ人、摂津国野勢の妙見の尊像をうつし仏工に彫刻せしめ是を本尊として...
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2012年9月14日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第10講 下街道大曽根界隈 第5回「関貞寺」
今は、建物に隔てられ何も見ることはできないが、明治の終わり頃までは美濃、越前、加賀、近江、三河、信濃、尾張北部の七州が一眸に収められたので、関貞寺の書院は七州閣と称せられていた。 『尾張名陽図会』に 関貞寺は大曽根の坂...
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2012年9月7日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第10講 下街道大曽根界隈 第4回「片山八幡神社」
東区には、国道十九号を隔てて片山神社が芳野町に、片山八幡神社が東大曽根にある。二つの片山神社は、式内社の地位をめぐり、明治時代まで争いを何百年間もくりかえしていた。 津田正生の『尾張地名考』はそのいきさつを 瀧川氏蔵王...
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2012年8月31日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第10講 下街道大曽根界隈 第3回「本覚寺」
本覚寺は、日蓮宗、京都妙伝寺の末寺。もともとは清洲の地にあった寺で、本法寺と呼んでいた。寛永年中(一六二四~一六四三)に現在の地に移ってきた。 正保五年(一六四八)恵性院日相が本尊をこの寺に移し、本覚寺と名を改めた。本尊は、...
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2012年8月24日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第10講 下街道大曽根界隈 第2回「道標」
五差路を越して十九号を走れば勝川、多治見に行くことができる。下街道と呼ばれていた道は、だいたいは現在の十九号に沿って通じていた道だ。 矢田から守山・瀬戸に通じている道が瀬戸街道だ。 瀬戸街道と下街道の分岐点に道しるべが...