清正の手形石―蓮池地蔵
江戸時代、志水町の北に蓮の花が咲く大きな池があった。寛文年間(一六六一~一六七二)に埋め立てられ田圃となった。蓮池新田と呼ばれていた。また道路の傍には、農家が何軒か建って、その地は池町とよばれた。通りから、一目で城そびえたつ名古屋城を眺めることができた。新田を開発した太田喜左衛門は、役所に願い出て、城が通りから見えないように道路の西側ばかりに家を建てるようにした。片側にばかり家が建ち並んでいるので町名も志水片町とよばれた。
その後、鍵屋善兵衛が文化年間(一八〇四~一八一八)に買い取った。鍵屋は太賀藤氏であるので太賀藤新田と改称された。蓮池があった頃には、弁天の祠が池の中に祭ってあった。夏には夕涼みの船を浮かべたり、花火をあげたりする遊興の地であった。新田となった後も、弁天の祠は取りこわされもせず、大事に祭られていた。
鍵善は、新田を買い取った後、弁天の祠を先祖を祭る太賀藤の社として、弁財天は祠中の傍に祭った。この祠の下に一つの石が安置してある。石には、大きな手形の跡が彫ってある。手形は加藤清正のものであるという。
名古屋城を築く時に、清正は小牧の岩崎山から多くの石を運んだ。稲置街道沿いには、清正が橋を架けたと伝えられる石が、今も多く残っている。
清正の人気は名古屋では絶大であった。志水の地で、石を運ぶ清正を村人がねぎらった。せっかくの機会であるから手形を押してほしいと頼み、その手形を模して彫ったものだという。
幕末、この石を盗み、清正の誕生寺といわれている妙行寺に持ち去った者がいる。太賀藤新田にあるものは、新しく造り直したもので、昔日のものとは少し異なっているという。
今も蓮池地蔵には、この手形を彫った石画が安置されている。
地図
より大きな地図で 沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」 を表示