六所社
今でこそ住宅地となっている下飯田の地であるが、昔はのどかな田園地帯であった。春にはあげひばりが舞い飛び、秋には水鶏の鳴き声が聞こえてきた。下飯田の村の中を御用水、黒川、大幸川、前の川が流れていた。しかし、戦後、御用水は遊歩道となり、大幸川、前の川は暗渠と変わりはててしまった。暗渠となった川の上を今日も何台もの車が通り過ぎていく。前の川に架かっていた水鶏橋、遺址橋、姥の橋の名前を刻んだ石橋は、六所社に集められ、掲示板の台座となって残っている。
ドジョウやタニシを求めて、水鶏が水辺に何羽も集まってくる。そんな情景が浮かんでくる水鶏橋。姥(老婆)が、孫をつれて川のほとりで洗濯をしたり、食器を洗っている姥の橋。ずっと大昔の貴重な建物の遺跡のあったであろうと思われる遺址橋。台座に刻まれている橋の名前を見るだけでも、下飯田のむかしが思い浮かんでくる。
六所社の東側、今は駐車場になっているが、その地に、明治時代は小さな水車小屋があった。小水車屋(ちいぐるまや)と呼ばれ、米をつく水車の音が、のどかに響いていた。
六所社には、イザナギ、イザナミ、天照大神、月読、蛭子が祀られている。もともとは八幡宮であったが、そこに六所社が後から併社されたと伝えられている。六所社の社殿の西側の地には山の神、八竜社、熊野社、天神社、神明社、金比羅社が祀られている。
明治の終わりから大正の初めにかけて下飯田の地は、田園地帯から工場地帯へと大きく変貌していった。矢田川からトロッコによって土砂が運ばれ湿地帯が埋めたてられ、近代的な工場が建てられた。小松組名古屋製糸場、東京モスリン名古屋絹紡工場、川上絹布工場などである。
下飯田の姥の橋近くにあった天照大神を祀った神明社、遺址社の南、森の中に祀られていた天神社。天神社はいうまでもなく学問の神さま、菅原道真を祀った社である。
清蓮寺の南、五十メートルの地には「おくまんさま」と呼ばれて、信仰を集めていた熊野社が祀られていた。清蓮寺の南東には、金比羅宮が祀られていた。熊野社も、金比羅宮も水上の神様である。下飯田の地が水郷の地であったことが二つの社によっても知ることができる。
そして寺の前には八龍社があった。祭神の八龍権現は雨の神で、「ちりゅうさま」と呼ばれていた。そして六所社の裏の田んぼの中には、山の神が祭られていた。
下飯田の村人とかかわりの深い六つの社は、工場が建てられるとともに大正三年六所社に集められてしまった。
地図
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