こよひお前に大津町―大津橋
京町より杉の町迄を云。むかし近江国大津の人、清須に来住し故の名なり。当地に移とも旧号を呼し也。
と『尾張名陽図会』は、大津町の町名由来を記している。
織田信長の居城する清須に、四郎左衛門という人が大津からはるばるとやってくる。大津の近く、京都に出かけるのではなく、鄙びた尾張の清須に来たことが、当時の世相をよく表している。 雅びの古都には、活気はなく人を惹きつける魅力はない。新興の街、清須に、一旗揚げようと大津から出かけて来たのであろう。 清須の町は、諸国から人々が往来する活気と賑わいのある町であった。
碁盤割の町、名古屋に大津、桑名、長島、伊勢という町名がある。清須に行けば仕事があると伊勢の国から、近江の国から人々が集まり、一つの町ができあがる。清須越とともに移り住んだ町に、清須で生活してきた町と同じ町名をつけて出来あがった町だ。 京都から呉服商人たちが移り住んでいた町が京町。時移り、名古屋碁盤割の中で、京町の隣に、東海道と同じように京、大津とつづく大津町があるのも何かの縁かもしれない。
京町は薬種商人の町だ。通りを歩くと薬の臭いがたちこめる町だ。薬品との縁であろうか、大津町には医者の家が多く立ち並んでいた。なかでも外科医の名束宗之、産婦人科医の奈倉道伯は有名だ。奈倉道伯は産前、産後の血どめの妙薬の二母散を用い、人々の崇拝をうけていた医者だ。 時は変わり、大正時代に入ってからも医者の町という雰囲気は変わらなかった。二人の医者が大津町一丁目の全体の敷地を占めるという豪壮な屋敷を構えて住んでいた。戦前まで、現在のキャッスルホテルの地に建っていた私立好生館病院の院長の北川乙次郎と副院長の佐藤勤也の屋敷だ。
私が二十代の頃には、大津橋の下を瀬戸電がのんびりと走っていた。大津橋の横に階段があり、その下に小さな駅があった。市電の大津通線の起点でもあり、大津橋の上を多くの人が市役所・県庁へと通っていった。瀬戸電、市電もいつしか姿を消して、大津町かいわいは、自動車だけが通り過ぎる町になってしまった。 「こよひお前に大津町」と七墓巡礼歌に歌われたように、退社の時間にあわせて大津橋の上で待ちあわせをした人が多くいたであろう。 車が走り過ぎるだけの橋ではない。人が通り過ぎる橋の上は、何かドラマが生まれてくる予感がする